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塀の上を歩く野良猫と空に浮かぶ月とはよく似ている。
奴らは神出鬼没の気まぐれ屋で、
夜に見かけたと思ったら真っ昼間にも浮ついていたりする。
その点、犬と太陽は大真面目で、
吠えて朝を知らせるし、走って夜を追い立てたりする。
努力家なる太陽からすれば、
日頃自堕落である月が主役とされよう「秋」は実につまらぬ季節だろう。

月は秋だけ賢いのである。
春や夏や冬では、まるで馬鹿が放った球の軌道で空を進む。
たまに良い位置に上がったと思えば、見せるのは半身だけだったりする。
しかし秋だけは、
屋根屋根を擦らず丸々と空に浮き、
首の疲れぬ目線の高さにいつまでも居座ってくれたりする。
中秋の名月。
秋のお月見。
かくも近頃は月の愛される時期である。

 



 


謎の男がやって来たのが一週間前だった。
男は桐箱に入った着物の切れ端を一杯に見せ、
「好キナ柄ヲオ選ビクダサイ」
と言うのである。
数日後には立派な浴衣を仕立ててくれるという。
「オ代ハ頂戴イタシマセン」
「帰ってください」
新手の変態だと警戒して押し問答していると、
端からカオルがやって来て、
「たまごやき」と、黄色い切れ端を指差した。
男は桐箱を閉め、我々からできるだけ遠ざかると、
一本指をかざして見せた。
遠目になって私たちの身の丈、寸法を計っているようなのである。
それだけして男はスタスタと立ち去ると、
隣の家の門戸を叩き、同様の質問をするのが漏れ聞こえた。
どうやらこれを一軒一軒やっているらしい。
「いいかカオル、怪しい人間に隙を見せてはならない」
「スキ?」
「そうだ。好意を見せてはならんのだ」
「なんで?」
「なんでってそれは、面倒くさいことになるからだ」

その「たまごやき色」の浴衣が届いたのがきっかり一週間後の本日、
9月23日の朝である。
梅鉢堂にだけでなく、おそらくは神保町各家に浴衣は届けられたと思われる。
この日は晴れであるため店を閉めていた。
夕方になると奇妙なことに祭り太鼓や笛の音が聞こえ始め、
私は執筆の手を止めざる得なくなった……。

「……、」
一階の戸の隙間から外を見やると、
祭り帰りという人々が歩いていた。
しかもカオルも選んだ「たまごやき色」の浴衣である。
桐箱の中には緑や黒や慎ましい色もあったはずだが、
「たまごやき色」が人気のようだった。
いやはやこの町で何が起こっているのだ……?
カオルは私の頭上に顔を置き、異様な宵に興味津々であった。
「おじさん。外、いこ」
「馬鹿を言うな。これは物の怪の仕業に違いない」
9月も末の秋の盆である。
予告なき祭り囃子に誘われては「奴ら」の思うつぼだ。
しかし……。
ふと見返ると、
カオルはあの「たまごやき色」の浴衣を着ていた。
「怪しいものを着るな! あとでふっかけられても私は知らんぞ!?」
「……、」
「はっ! もしや……」
一週間前に来たあの男、あれも物の怪の類いではなかろうか。
「良い案だカオル、物の怪の置いていった浴衣を着て、
 百鬼夜行に紛れ込むというのだな!?」
「?」
「……水上たちが心配だ、直ちに向かおうっ」
「うん」
私は急ぎ浴衣を纏った。
少し延びていた前髪をつむじにめがけて逆立てる。
するとカオルはいじらしくもこれを真似た。
「いざ行かん」
「うん」
店主に心配かけぬよう、
私たちは忍び足で梅鉢堂を出た。

 



 


白山通りはなんとまぁ華やいでいた。
橙の提灯が連なって宙を飾り、
古本屋は店先にお面屋や金魚屋を招いていた。
市電は豪華絢爛な電飾を纏い、
警笛の代わりに篠笛を鳴らした。
なんだ、この頭のおかしな幻想は。
しかもほとんどの者が「たまごやき色」の浴衣を選んだらしく、
奇しくも私たちは上手くこの夜に馴染んでしまっていた。
私は白い羽織を頭に被り、
身を屈めて通りを歩く。
カオルは無防備に背を伸ばし、きらめく景色に浮き足立っている。
はぐれないよう袖をつねって引っ張り、私たちは水道橋を目指した。

水道橋までくれば喧噪も抜けるかと思ったが甘かった。
神田川を屋形船たちがぼうっと流れ、
呆けた音頭を発している。
橋の向こうの本郷は神保町ほどの騒ぎはないが、
提灯を持ち煌々とした人の群れが流れ込んできていた。
「これは一体……!」
「玉森、」
「!?」
群れの中から一つこぼれ、こちらに近づいてくる人影がある。
水上だ。
菩薩面の幼なじみである。
この異様な世界ではこいつの笑顔がなかなかにありがたかった。
「水上! 今そっちに向かうところだった!」
「俺もだよ、ちょうどよかった」
「この騒ぎはどうしたことだ? 何がどうなっている!?
 というかお前も呑気にお洒落をするな!!」
「お洒落、かな」
水上は照れて首を掻いた。
「奥さんに着せられたんだ。神保町に出かけるなら着てけって。
 玉森たちこそよく似合っているよ」
「これは百鬼夜行に溶け込むための扮装である」
「ひゃ、百鬼夜行…? っあぁ、これは「星祭り」だそうだ」
「星祭り!? 」
水上は頷いて、西の空を指差した。

「!!?」

まん丸でっぷりとした月の隣に、
二本の尾を持つ大きな光源がある。
「彗星だ」
「彗星!?」
「とんでもない速度で近づいて来ているらしい」
「とんでもない速度!?」
「天文台は一週間前から観測していたらしいが。
 民間に知らされたのは今朝だ」
「今朝!!?」
「号外をもらわなかったのか?」
「朝にこの浴衣を受け取ったあと、夕方前まで寝ていた……」
「そうか。だいぶその……板についてきたな、自堕落が」
「まさかあの星、落っこちたりはしないよな?」
「もちろんそんなことはない。だってこの彗星は……」

「落ちるぞ」

「!!!」

そこにまた一つ人影が近づいてくる。
私たち三人は同時にそちらを振り返った。
恐ろしい言葉を伴ってやって来たのは、
花澤であった。
「博士によると、どうやら地球は滅亡するらしい」
「え、」
「何ー!!?」
「今宵は人類最期の日を楽しむ催事だそうだ」
「!!!」
「つまりこの祭りの仕掛け人は氷川さん……?」
「あぁ」
花澤は神妙に語った。
「…一週間前。彗星接近を知った博士は私財の八割をなげうって、
 この祭りを準備し始めた」
「その割には告知が足りん! 私はてっきり物の怪の仕業かと……っというか!」
私は花澤の襟を掴んだ。
「滅亡するって、どういうことだ…!」
「あの彗星が地球に触れれば、生命は死滅してしまうという」
「!!?」
「花澤、あまり大げさなことは……、」
「博士の言っていることだ。俺は信じる」
「おじさん、にげよ……」
「どこに逃げ場がある! 見よ! 月よりデカいのだぞ!?」
「た、玉森。あれは月より近くにあるから大きく見えるだけで……」
「ちっぽけな人間に大宇宙の何がわかる!」
「そ、それもそうだな……」
「反省しろ!」
「そうする……」
水上はやっと困った顔をして首を傾げた。
……しかし博士も博士だ。
このような祭りを催すくらいなら、
彗星を打ち砕く大砲でも作ってくれたらいいものを。
「玉森クンノタメナラ何デモ出来マス」とは口だけだったのか。
私は白山通りを見返した。
皆、何も知らずに興じている。笑っている。
囃子を聞きつけて、ソウダ浴衣ヲモラッタンダなどとして、
祭りへこぞったに違いない。
この景色が、もうすぐ消えてしまうというのか……!?
「なぁ玉森、落ち着いて聞いてくれ。
 そう心配しなくても大丈夫なんだ。だって、この彗星は……」

「玉森くんに花澤くんたちー!!! 地球の終わりをたっ、楽しんでますかぁ!」

黒い車が歩道に乗り上げる。
博士は運転席の窓から泣き笑いを突き出した。
話を折られた水上は立ち眩みしている様子だが、
私は今、博士と話したくてしょうがなかった。
「ちょうどあなたに会いたかったんです!」
「なんて嬉しいことを…! 僕もです玉森くん……!」
車から降りてきた博士は
死に装束のような浴衣を着ていた。
彼はさめざめと涙を流しながら、私たちにうちわや提灯、林檎飴を配った。
ちゃっかり氷川家の家紋入りである。
「記念品です……」
「俺は自前の提灯で十分だ。それより博士、
 お前の口からあの彗星の危険性を語ってくれ」
「あなたにもどうにもできぬことなんですか!?」
「(大事になったな……)」
「まずは皆様、彗星がなんたるかをご存じでしょうか……」
皆、様々な音色でごくりと息を飲む。
「彗星は氷の塊です…。
 太陽に近づくにつれ溶かされて、ガスを放出します。
 それがあの美しき尾なのです……」
「!」
見える、見えるぞ。
ぼやっと丸い光源の後ろに、二本の長い尾が引いている。
一本は黄色く、一本は青く。
「ガスは二酸化炭素、一酸化炭素、水素、さまざまな性質です。
 あれの水素が地球に触れて、地球の酸素と結合した時、
 僕たちは一瞬にして窒息してしまうのです!!!」
「何だって!!」
「……、」
「落下しても死、触れても死…!
 ですから僕にはどうすることもできません……」
「そんな…」
「せめて思い残すことなく玉森くんに喜んで頂きたくて、
 一週間前より神保町を飾る準備をしたのです」
「!」
「楽しんで、もらえていますか……?」
「博士……」
彼は悲しげに笑った。
それを見て初めて私は胸が高鳴った。
うさんくさい夢想家だと、しゃべる財布だと、
私はそのようにしか博士を見て来なかった。
彼は皆の浴衣をこしらえて、飾り付け。
最期に笑顔溢るる夢の世界を実現してくれた。
もっと他にやるべきことがあるのではないかと思うが、
余計な悪口を考えてしまうのが私の悪い癖だ。
今は純粋に、感慨に浸ることにした。
「忠義だな」
花澤が深く頷く。
「ちゅうぎだ」
カオルは林檎飴を舐めながら呟いた。
花澤も、カオルも、そして博士も、とうに腹を決めているような面持ちに見えた。
あとは私だけである。
「……では、」
終わりは終わりでしょうがないので。
「皆で秋祭りを楽しむか!」
「さささすがの理解力です玉森くん…!
 ささぁ、今から貸し切りの東洋キネマへ……」
「いや。その前に川瀬のところへ押しかけよう」
「!?」
疲労していた水上が、ぱっと顔を明るくした。
「それがいい、川瀬ならきっとよい助言をくれるはずだ」
「助言?」
「あぁいや……」
川瀬のことだ。易々と祭り囃子に引き寄せられたりはしまい。
いるなら自宅、
今にも寝入らんとする姿が浮かんだ。
おそらく一人で寂しかろう。
「氷川さん、俺たちを車で運んで頂けないでしょうか」
「……」
「ひ、氷川さん……?」
「…僕が手配した祭りに背を向けて、
 わざわざ池田邸へ行くんですか……?」
「……、」
博士の剣幕に水上は口ごもった。
「博士。川瀬を連れてまたここへ戻ってくれば良かろう」
「池田くんは日陰を好む方ですからこういった祭りはお嫌いでしょう……」
「一理ある」
「そんな彼のために池田邸周辺の電力供給を止めて
 この神保町に注力してるんです。
 ですからあちらへ行ったって……」
「っということは今、あいつは真っ暗闇で過ごしているのか!?」
「はい。なので池田くんのところへ行ってもきっとつまらな……」
「それは良い!!!」
「!?」
「こうも天気であるのに、街明かりが煩くて彗星が良く見えぬでしょう!」
町明かりが空にまで届いて、星さえ見えぬ。
だが……。
「明かりのない場所ならよく観察出来そうだ」
「えっ!」
「なぁ博士!」
「えっ…!!」
「どうですか博士!」
「……名案、だと思います、」
善は急げと車に乗り込む。
私たちは後部に詰めて座り、花澤が助手席に座った。
車はいつもの博士らしからぬ、
よろよろとした仕草で池田邸へと滑り出した。





池田邸周辺に近づくと外灯がはたりと途絶える。
他の住民にはいくらか金を払って
神保町の祭りに招待したという。
川瀬も例外ではないらしいがやはりあいつのことだ、遠出はしまい。

洋館・池田邸は厳かな佇まいで、
空より暗く、大きな山陰のようである。
二階の川瀬の部屋にだけ蝋燭の明かりがちらちらと揺れていた。
車が止まったことに気がついたのか、
人影がふっと窓にかかり、それからすぐさま引っ込んだ。
この総出を見、何か億劫な予感がしたに違いない。
寝たふりをしようというのだ。
「起きろ川瀬!!」
「池田く〜ん。ハッピー・デウス・エクス・マキナですよ〜」

「川瀬ー!!」

突然大声を上げ、しかも必死の形相をしているのは水上だった。
私も博士も思わず彼を向いて背筋を伸ばす。
果たして川瀬は苛々と顔を出した。
「は? 何?」
「助けてくれないか!!!」
「寝るところなんだけど」
「池田く〜ん。ハッピー・カタストロフィ〜」
「…なんでそいつ壊れてるの?」
「氷川さんは今日を地球最後の日だと思ってるんだ」
「あの彗星が地上に降り注げば生物は滅するらしいぞ!
 共に最期を鑑賞しようではないか」
「馬鹿?」
「下りて来い、川瀬」
「かわせ」
「……」
「みんなずっとこの調子で……。
 川瀬から何か言ってくれないか…?」
「……」
明かりが消える。
間もなく下りてきた川瀬は緑の浴衣を着ていた。
「なんだ川瀬も参じる気だったのか!」
「寝間着に丁度よかっただけ」
「夜はこれからだ、寝るとはつまらぬことを言うな」
「……」
「少しだけでもいい!」
私はちょいちょいと手招きした。
川瀬は眠たげな表情でいる。
いまいち存在感のない足取りだが、意外に大人しく外へ出てきた。
一緒に庭の真ん中に立つ。
川瀬は私の指差す西の空を眺めた。
「……、」
満点の星空と、それを横切る大彗星の雄姿である。
静かだから虫の音も澄み渡る。
田舎に帰ってきたような心地がした。
「お前の庭からならば
 きっと綺麗に見えると思ったのだ」
「……」
「うむ! 見事に近づいてきているな!」
「……」
「か、川瀬。なんとか玉森たちを説得してくれないか……」
「説得とはなんだ。私は別におかしくなってはいない」
「玉森はそうかもしれないが、氷川さんが…」
「あはは、あは! あは!」
「……」
「最期の日だ川瀬! 刮目しろ!」
「あのさ玉森くん」
けだるげに発せられた声が妙に熱っぽく、私はちょっと驚いた。
「今まで結構、面白かったよ」
「……、」
彗星が突然、光度を増した。
「でも今日でさよならだね」
「!」
「玉森くんも俺になんとか言ってよ」

水上は眩しさに目を細めた。いや、普段から糸目であるから形容しづらい。
花澤は軍刀に手をかけた。いや、そんなもので彗星を断ち切れるはずがない。
博士は両手の皺を合わせて膝を落とした。神と仏の同時に祈るとは欲張りだ。
カオルはもらった林檎飴を一口で平らげた。膨らんだ頬が赤く色づいた。
川瀬は私の返事を待っている。
私は少し考えてから、真昼のように明るい空を見上げた。
最期に言いたい言葉……か。
その猶予があるのなら。川瀬にも、水上にも、花澤博士カオルにも同じ言葉を伝えたい。
「いやぁ。楽しかったぞ」
川瀬は吹き出した。
呆れた様子の、眉をハの字にしたいつもの嫌味な笑顔であった。
「なんだ!?」
「自称文士のくせに語彙力ないんだね」
「最期だというのに、失礼な奴め……」
……光度が下がる。
今のまばゆさはさすがに滅んだかと思ったが、
どうやら彗星の気まぐれな発光だったらしい。
水上は石化した我々を見回して、瑞々しい笑声をこぼした。
それにより緊張を解かれる心地がした。
「この前もハリー彗星が来て、世界中で同じような騒ぎになったろう」
「十年以上も前ですから、僕はよく……」
「ハリー彗星は宇宙を周回していて、七十五年ごとに地球に立ち寄っているんだ」
なんだか途方もない話に、私はまた宙を見上げた。
「今回の彗星は百年周期の彗星だ。
 あの時もこうして地球の近くを通過していった。
 だから今日も、そして百年後だって、何事もなく通りすぎるはずだ」
「見知ったように詳しいな?」
「文献にも残されていることだ」
水上はずっと小脇に抱えていた本を揺らした。
「なんだ…。ではこの彗星は落ちないし、我々は無事ということか?」
「あぁ。明日の朝には見えなくなっているだろう」
「もっと早く言わんか……」
「い、言おうとしたよ」
「なら、全て僕の早とちり……?」
「お前の杞憂であったらしいな」
「あはは……あはは……」
「玉森の安否が絡むと思考力が落ちるようだ」
「おまつり、もどろ」
カオルが笑う。
林檎飴を噛み砕き、やっと飲み込み終えた笑顔である。
それがあまりに平和な笑みであるから、
私もいつもらしくにゃははと笑えた。
「川瀬も祭りに行くだろう?」
「……」
「ってどうした、また黙って…」
「全員馬鹿だなと思って」
普段なら。誰かがキーなどと言って応戦していただろう。
だが私たちは無言のまま顔を見合わせた。
……現代でこれだけの大騒ぎなのだ。
百年前、そのまた二百年前、さらなる大馬鹿者がいたかもしれない…。
もしくはこの横に広い地球のどこかで、今まさに馬鹿をやっている者どもがいるかもしれない…。
そう思い馳せれば、服を着て人語を話せている私たちはまだ可愛げがあるのではと考えられた。

誰が一番馬鹿であるのか、
全ては月と、この彗星のみぞ知る……。


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2021/9/23

ステラワース10周年 記念SS「秋の星空鑑賞会」

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