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「誰も帰つて来ない黄昏」表

白い気泡のカーテンが晴れると、
目の前に奇異な光景が広がった。
無数の柱が肋骨のように立ち並び、その道は巨大神殿に続いている。
歩き出した私の頭上を、魚群が行く。
鱗が光をキラキラ弾き、海中に虹の橋を架ける。
博士に潜水具を持たされなければ、見る事叶わなかった絶景だ。
今、私の背には酸素瓶が三つ。潜水兜の四方には丸い硝子窓がついている。
陸では重いこの身体も、水中では地上と変わらず過ごすことができた。
…しかし不思議なことがある。人1人をすっぽり包むこの潜水具を、
私はいかにして袴にねじ込んできたのだろう。
いやいや考えるのはよそう。そんなこと、この雄大な景色を前にして野暮というものだ。
そうしてのろのろひた歩き、退屈しないうちに巨大神殿の前につく。
ぽっかり黒い口を開け、心なしか久しぶりの来訪者を歓迎しているようにも見える。
中を探索するのもきっと楽しかろう。
だが私は浮き袋に酸素を送り込み、ふわふわと身体を浮かす。
そうして神殿の肌に沿って、私は屋上へと向かった。

神殿の屋上には緑鮮やかな海草がしげり、私の着地を抱くように受け止めてくれる。
その海草をかきわけ歩いた先に、
彼は目をつぶって寝転がっていた。
私も彼にならって、この神秘的な寝台に横になる。
起こすまいと思っていたが、つい寂しくて声を掛けてしまう。
通信機を通して、彼の瞬きが聞こえた。
「なぁ花澤。海底人は、どこへ行ってしまったんだろう」
「海底人などいるものか」
「だがこの文明はなんなんだ、」
「かつて栄えた国があったようだな。…だが、沈んでしまった」
「沈んだ…。それはどういうことだ」
「神の怒りに触れて、沈められたんだろう」
「ひどい神もいたもんだ」
そうした歴史の上にまた、私たちの歴史があると言うのか。
潜水具はゴム製だから、私は易々と寝返りをうつ。
花澤は海面がまぶしくて、また目を瞑ってしまったようだった。
「ではこの神殿、もう誰のものでもないということだな?」
「そうなるな」
「私たちだけの名前をつけようよ、」
「好きにするといい」
「うーんそうだな。神様の寝台というのは、どうだろう」
「神の寝台、」
花澤は目を瞑ったまま、ふっと笑った。
「たいそうな神殿も、まさか寝台と名付けられようとはな」
「良い名だろう、」
「良い名だ」
あんまりお前が心地よさそうに眠るから、
そう名付けてみたんだよ。
「花澤、おやすみ」
「あぁ」
「アァじゃないだろう、」
「おやすみ、玉森」
「うん。おやすみ」
鯨が太陽を覆い隠す。
私もその隙に目を閉じて、午睡に意識を投じた。


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「!!!」
ぎょっとした面持ちの花澤。
目覚めた私も、きっと同じ顔をしていたと思う。
冷や汗、いや違う。これは寝汗だ。
私が身を起こせば、彼はそそくさと窓辺へ歩を向けた。

…さっきの景色は、夢だったんだな。
しかしなんの夢を見ていたっけ。
花澤の瞳に映った私は、口角が上がっていた。きっと楽しい夢だったんだろう。
窓から日が差し込んでいる。
波音も虫の声もうるさくて、今の今までよく寝ていたもんだ。
私はシャツを着つつ、花澤の横に立った。
「快晴だ…!昨日の嵐が嘘みたいだな、」
「さすがにこの小屋も飛ばされるかと思ったが…。無事で良かった」
小屋には木のベッドが二台に、棚と椅子が揃えてある。
入り口には博士が持たせてくれたランプが掛けてあって、
夜は木くずを入れて灯している。
「よく眠ったな、」
「もっと早く起こしてくれよ、」
「いや。…起きる様子がなければ1人で行こうと思っていたところだ」
花澤の腰元には軍刀が携えられている。
…そうだ、今日は花澤についていく用事があったじゃないか。
だのに太陽はもう真上だ。
「……本当について来る気か、」
渋るような彼の言葉に、私は頷く。
昼まで寝過ごしていた馬鹿とは思えないツラで、大きく大きく頷いた。


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森は昨日の雨にぐずついて、
照りつける太陽に蒸されている。
私は袴の裾を結び、花澤の手を借りて森の深部へと進んでいた。
彼に手をとられ思い出すのは、先ほど見た夢のことである。
「さっきな、深海に行く夢を見ていた」
「また奇異な夢を、」
「それから……なんだっけかな?」
「泳げないのにどうして深海に行けたんだ」
「潜水具を着込んでいた。そう!陸では重たい潜水具で……ッて!!」
木の根に足を取られ、意図せず花澤の胸に飛び込んでしまう。
ごめんと笑えば、彼は無表情のまま私を押し返した。
「先も言ったが。本当について来る気か?」
「あぁ!今日こそお前にシゴトを教わりたい」
「……、」
花澤は目を伏せて私から視線を外すと、また真っ直ぐに前を見据えて歩き出した。
今度の花澤は手を貸してくれない。
煙に巻くように、どんどんと先に進んで行ってしまう。
まるで諦めろと言わんばかりのその行動に、私は余計に火がついた。

私たちには食料調達というシゴトがある。
作るのはワケあって毎回私であり、材料は毎日交代制で集めることになっていた。
花澤は森に入って、肉を持って帰って来る。
私は木にも登れず鳥も追いかけられないため、
何かわからん実を集めて煮込むことしかできない。
最近は森のそこら中に生えていたキノコが拾い、鍋にした。
その夜花澤は腹を下し、
森の動物たちが食わない理由がわかったと死にそうな声で訴えてきた。
さすがの私も猛省した、そして思った。
…私にも鳥が捕れれば。鳥をさばれば。毎日の食事に潤いが出よう。
だから今日、花澤のシゴトぶりを盗みに来たというわけだ。

「…?」
やっと立ち止まったかと思えば、巨木を見上げている花澤。
ゴツゴツとした木肌は、まるで断崖の絶壁を思わせる。
木の真上には太陽があって、私たちを燦々と見下ろしている。
花澤は両手を拭くと、慣れた手つきで木肌を登り始めた。
「あぁあ危ないぞ!!」
「……」
私の心配をよそに、葉の茂る枝にたどり着く。
枝の上に腰を下ろした彼は、以前からそこに設置していたであろう、木の籠を取り出した。
籠の中には赤い鳥が一匹。
大きな羽を、窮屈そうにばたつかせている。
花澤は器用に木を下ると、まず私に籠を手渡した。
「!!!」
「だいぶ前に罠を張っていた。
 いつもお前が拾ってくる実があるだろう、この鳥はあれが好物のようだ」
「海老で鯛を釣るとは……」
「今からさばく」
「!」
鳥と目が合う。しばらくそのつぶらな瞳に引き込まれていたが、
浅く開かれた入り口から花澤に足を掴まれる。
そうして宙づりになった鳥は、なお私を見つめている。
助けてくれるとでも、思ったのだろうか。
この世界の生き物は、あまりにも純粋すぎる……。
「…!!」
鳥の頸動脈に、軍刀を押し当てる花澤。
大量の血が、ぽたぽたと大地に垂れる。
…花澤は何か説明していた気がする。
私は頭が真っ白なまま、その解体の様子を眺めていた。
…首を落とし、羽をむしり、皮を剥ぎ。
そのうち見慣れた肉となって。
花澤は大きな葉にくるむと、私に手渡した。
「覚えたか?」
「っえ!?あ、あぁ!?あぁ!!」
…こんなに暖かな肉に触れたのは初めてである。
「…玉森は先に帰ってくれ。俺は他を見に行ってくる」
「仕掛け、まだあるのか……」
「3箇所にな。…一時間で戻る」
「それなら私も…!」
「腰が引けているぞ」
「!」
言われてやっと、自分の体勢の辛さに気がついた。
私を置いて森の奥へと進んでいく花澤。
私は腰が引けたまま、彼とは反対の道へ進んだ。


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この世界に来て改めて、花澤が持つ順応性の高さに驚かされる。
流木を集めて家を作り、火を恐れずに大きく育て。鳥を殺して肉にして…。
彼は望んで来たわけでもないのに、ウキハシで見た夢と、この世界はよく似ている。
唯一違う事と言えば、彼に笑みがないことか。

元来た道を慎重にたどり、やっと海辺の家に着く。
鶏肉は棚の上に置き、私はくたびれた身体をベッドに寝かせた。
「……」
思ったより、私の身体は疲れているらしい。
大量の血を見た反動、なんて女々しい理由ではなく。
連日の嵐といくら食しても満ち足りない腹に、
私も花澤も体力を消耗していた。
お互い口に出さないが、思考力を削って体力を回復させている節がある。
たとえば花澤は日数を数えることをやめていて。
私は時間の概念を失いつつあった。

日が傾き始めている。

…ただ寝て待つのもしのびない。
一時間で戻ると言っていたし、それまでに飯を用意しよう。
ベッドから起き上がった私は、壁にかけていた「釣り竿」を手に取った。

浅い水辺に立ち、海の遙か先をめがけて竿を振る。
そうして良い位置に浮きが見えると、あとのいつも無心であった。
けれどふと、昼に見た夢の景色を思い出す。
潜水具は確か、博士に作ってもらったんだった。
私が今手にしている釣り具も彼のものであるが、これは夢でも幻でもない。
…今日はやけに博士のことが思い返されるな。
不思議なことに、離れてからやっと彼の偉大さが分かった。
まさか1万年前の浅草が海とは思うまい、
釣り具や浮き袋などいらぬという私に、博士は半ば強引に押しつけてきた。
というのも現代に残る貝塚が陸の深くにあることから、
当時の海は今より広いというのだ。
点在する貝塚を線で結べば、そこがかつての海岸線だと。
事実その通りであったことから、頑固な私も今ならすぐに礼を言える。
2度と、会えないのに。

「!」

そんな不毛なことを考えていると、突然竿先がしなる。
瞬時に分かる、これは大物だ。
打ち寄せる波に合わせ、真鍮のリールを巻き取っていく。
慌ただしい魚の動きに、身体ごと持って行かれそうになる。
歯を食いしばり眉間を歪め、両手に力をこめる。
私はなりふり構わず海へと近づき、恋の駆け引きのような攻防に傾注した。
「っ!」
ふっと、竿が軽くなる。
チリチリとリールを巻き取って、綺麗な針先を見てため息をついた。
…一体これは何度目だ。
この世界の魚はいちいち大きくて、私の力で扱えるものではない。
だが今日コソハと挑んでしまうのが私のサガであり……。
…花澤であれば、今の魚を逃しはしなかっただろう。
例の如く彼は、どこにだって順応していけるから。
「……」
対して私はどうだろう。
私がこの世に順応出来ないのは、この世が私を弾きだそうとしているのではないか。
だとしたら何もこんな顕著に知らしめなくてもいいじゃないか。
「……、」
海は静かだった。
心が騒がしくなるたび海と向き合えば、
自然と心が平らになる。
私は針先に餌を付けると、また遠くへ投げた。


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この世界は美しいと思う。
私の描く幻想よりもまぶしくて、複雑な光彩を放っている。
毎日何かしら新しい色の発見があり、
私がこれまで見て来た世界がどれだけ色あせていたのか思い知らされる。

空の色が琥珀から、紫苑に移り変わっていく。
黄昏の中で、私は水平線を見つめていた。
釣れない。
昼飯にと軽い気持ちで飛び出してみたものの、
そんな時刻はとっくに過ぎている。
私の腹の虫も鳴り止まないので、妥協の末の挑戦だ。
何度となく岸を振り返るが、花澤が帰って来ている様子はない。
……どうしてしまったんだろうか。
濡れまいと結んだ袴を持ち上げるほどに、
潮も満ちてきている。
諦めよう。そうして笑い話にでもして、花澤に聞かせよう。
大人しくリールを巻いていると、

突如、引きがあった。

「…!?」

二度目の引きは、一度目のそれとは比べものにならない。
結んでいた袴が解けて、海水に浸る。
そんなことも気にならないほど、私は目の前の獲物に集中していた。
歓喜なんて気持ちもない。
海に引きずり込もうとするその力に、自然の怒りすら感じる。
いやしかし怒り、なんて。後ろめたいことばかりしている私らしい感性だろう。
「ッ!!」
竿を離さなければ……いいやダメだ。せっかく博士が持たせてくれた道具なんだ。失いたくない。
だが黄昏色の水面は膝まで、腰まで、胸まで迫ってくる。

わっと足を滑らせたその瞬間、私の身体は水に溶けた。

「…!」

遠ざかる海面。

そうだ、昼に見た夢は確か、花澤と一緒に海中で昼寝をしていたんだった。
私が名付けた神殿の名を、花澤は笑ってくれたな。
その名は……あぁ、また忘れてしまった。
視界が暗くなって、四肢の感覚が失われていく。
…心地良いとすら、感じる。
私は水に沈むと意識を手放す癖があり、今だって無抵抗だ。

するとふと、水面を割り進むような音が聞こえてきた。

その手は私の腕を掴み、もう一方の手で私の背を抱く。
そうして水面に引き上げると、軽々と立たせてくれる。
あまりの海底の浅さに笑いがこみ上げてくると同時に、
酸素のうまさに涙が出てくる。
ビャハハと花澤の胸で笑っていた私だが、
深刻な彼の面持ちを見てさらに笑えて来た。
「なぜ早く離さなかった…っ」
「でっかい魚だったのだ!いやぁ惜しいことをした!」
「そんなことは聞いていない…!!なぜ竿を離さなかった!」
「せっかくの竿だぞ?簡単に捨てられるわけがない」
「……っ、」
針を食いちぎったのか、竿はぷかぷかと浮いている。
それに手を伸ばそうとすれば、きつく抱いて引き留められた。
「!」
「竿などなくても生きていけるだろう、」
「まぁそれもそうだが……」
「…もう、何もしなくていい……」
押し殺した声に、私もなんだか申し訳なくなってきた。
「ごめん、」
「……」
「本当にごめん。怒ったか?」
目をつぶったままため息をつくばかりで、返事はない。
「…焦ったか?」
「焦ったぞ」
「よし。それじゃあ今日も地獄の意義があるな?」
「…ふざけるな」
「にゃははは」
花澤はやっぱり笑わなかった。
それよりも、先ほどから苦しそうな顔をするばかりだ。
「おい…?」
「……」
すると突然、抱きしめられる。
「はっ花澤!?」
「すまん。右足を折って、均等がとれない」
「折ったって…!なななんで!?」
「……、」
帰りが遅くなったのも、そのせいなのか…。
日は地平線の向こうに落ちて、薄暮は闇に塗り替えられていく。
私は花澤に肩を貸し、のろのろ浜へと上がった。


引きずる足の痛々しさに思わず息を呑む。
ベッドに彼を座らせる頃には、彼はいつもの表情に戻っていた。
…足の甲が腫れている。
「何があった…?」
「木から落ちた。…悪いな、獲物を全部逃がしてしまった」
「そんなこと気にすることじゃない…!」
「すまん」
「それより、足どうしよう…!?」
「固定すれば治るだろう」
軍刀から刀帯を外すと、真っ直ぐ伸びた小枝と一緒に足へ巻き付ける。
骨折、なんて。
花澤らしくない…と言えば、彼を過信しすぎているようで憚られる。
花澤も疲れた様子で、ベッドに横たわった。
私もそのベッド脇に肘をつき、彼の顔を見つめていた。

「……」
「……、」

波のさざめきに、雨音が混じる。
今夜も豪雨になるのだろうか。
だとしたら火も起こせないな、せっかく取った鳥もこのまま腐らせてしまうのか。
…繰り返すが、私たちは何も食べていない。
花澤も私も、いつ倒れてもおかしくなかった。
「お前はずっと……笑わないな、」
「……」
呆れ混じりに。ため息混じりに。
なんてことない会話を切り出したつもりだったのに。
私は愉快に声を発せられなかった。
「実はちょっとだけ、期待してただろう?」
「……」
「でも…この世界には何もなかったな」
海底都市も。
見果てぬ荒野も。
未知の人種も、未知の動物も。
花澤はあんまりしゃべらないから、私も時々言葉を忘れそうになる。
でもカルスピの空き瓶や軍刀の輝きを見る度、私たちがどこから来た存在なのか思い出せる。
それでも私は……。
「ここは、地獄だ」
「……、」
私は、微笑んだままだった。
地獄に突き落とすつもりで花澤をここに連れてきた。
だから彼が苦しむのは喜ぶべきことであり、この笑みを崩さないのはザマァミロとそんな心地だ。
「いっそ死にたいと思う」
「…!」
「今日も死ねなかった」
「……」
「なぜお前は、……。…笑っていられるんだ」
「私は……」
「お前は楽しんでいる、」
花澤は私の目を見なかった。
天井を見上げたまま、
だから私も目線を下げて、ベッドの脇に突っ伏した。
「俺は人殺しだ、」
「だからずっと、ここで苦しんでいろ」
「なぜ俺と一緒にいられる」
「……」
花澤の語尾が強まる。
私は花澤の疑惧に気づかないふりをした。
「頭を冷やせ」
「お前まで地獄に付き合う必要はない」
「……、」
ふと身体を起こす花澤。
ベッドを降りると、右足を引きずりながら外へ向かおうとする。
私はその腕を掴み、力一杯引き留めた。
平常心でいるつもりだったのに。
…彼の瞳には、不安に歪む私の顔があった。
「…出て行く場所がないから、ここに集っているだけだ」
「違う、」
「だから俺が出て行く」
「話を聞いてくれよ…!」
「なら俺の質問に答えろ、」
「…!」
花澤は、困惑しているようだった。
私が無言でいるの察して、すぐにいつもの声音に戻す。
「…軍刀も置いて行く。使い方は、昼に教えただろう」
「逃げるな…」
「……」
「……行かないでくれ、」
私の手を払う花澤。
けれど彼は初めて、私に向き合ってくれた。
「俺はもう、お前を友として見られない」
「!」
力なく、私の頬に手を触れる花澤。
その指が唇に触れたとき、私は思わず身を引いてしまった。
…花澤が、どんな目で私を見ていたか。今知った。
そして私がどんな反応をするのか。花澤は知っていたように思う。
「……俺は最低な男だ。
 俺がしたことを、…よく思い出せ」
「……、」
「…忘れたとは、言うまい」
「忘れた、」
「……」
「それに本当に最低ならとっくに私を……」
胸ぐらを掴まれる。息のかかる距離まで、顔を近づけられた。
「は、…花澤、」
「……」
拳の中で、私のシャツのボタンを外す。
すくんでいると、花澤は私の胸を突き放した。
「…!」
豪雨の海へと突き進む彼。
私は風雨に倒れそうになりながらも、彼の後ろを追う。
砂は水気を含んで、泥のように私の足を捉えた。
「教えてくれよ!!」
「……」
「言っただろ!!いつかの私に、伝えるって……!!!」
私を、好きでいてくれた理由を。
「花澤!!!」
声が豪雨に流される。
私は転ぶことも厭わず走り出して、花澤の目の前に立ち止まった。
「……」
どちらともない沈黙。
海が嵐にかき乱されて、私たちを飲み込もうと荒れ狂う。
立っていられなくなった私は、歩み寄り、彼の胸に寄り添った。
「お前は、俺の弟だ」
「……、」
「お前だけが……。俺の全てだった」
「あんなに、困らせたのにか」
「あぁ」
「こんなに…今だって、…苦しめているのにか」
花澤は言葉の代わりに、私に腕を回した。
その力強さは、やはりずっと変わらない。
「私も、兄だと思ってるよ」
「……」
「ずっと憧れていた。…眼鏡も、口調も、お前に似せて。
 会えない間も、……お前を想っていたよ、」
「…お前が憧れていたのは、俺の虚栄だ」
もう、わかりきっている。
それでも私は……。
「今の花澤が、一番好きだ」
「……、」
「私の兄にふさわしい」
誰よりもか弱くて。
誰よりも幸せになりたかったくせに。
誰よりも不器用なせいで何もかもを壊して。
…もう、戻せないまでに砕かせて。
「一緒にここで、苦しもう」
幼い頃は私に何かあると、花澤は胸に抱いて甘やかしてくれた。
それと同じ時間を今、過ごせている。
けれど花澤は、私の肩を押し返した。
「俺で、いいのか」
「いいんだよ」
恐る恐る、私の頬に手がとまる。
「……、」
ためらいがちに寄せられた唇に、私の方から、口づけた。
…私にも花澤と同じ、罪がある。
花澤の弱さに気がつかないフリをして、彼の腕に甘えていようとしたことだろう。
だから。
「花澤、しよう」
「……」
「…兄と、弟のままで」
ここはやっぱり地獄だ。
私たちに、綺麗なままでいることを許してはくれない。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


上になったのは、私の方だった。
花澤は迷ったような表情で上体を起こし、未だに視線を合わせてくれない。
何か言いたげなその頬を両手で包んで、口づけで押し倒した。
「玉森……、」
「何もしなくていいよ、」
「……、」
「花澤は卑怯者だからな。
 …そのまま黙って、私のせいにすればいいのだ」
いやみったらしく笑って見るが、花澤は目を伏せた。
私は身体を南下させて、彼の腰に触れる。
きついベルトを外して、浅くズボンを下ろす。
すでに立ち上がり、触れればとくとくと根元を脈打たせている。
私はとうに袴を脱ぎ捨てていて、シャツのボタンも無造作に解いたままだ。
…こんなみすぼらしい私を見ただけで
食指が動くなど、やはり紀元前とは恐ろしい場所である。
そしてそれを易々と口に含める私もまた、狂ってきているのかも知れない。
「…!」
亀頭を口に包んだまま、傘の裏を舌でくすぐる。
たまらず身体を起こした花澤は、私の髪を掴んだ。
「やめろ……!」
「地獄に落としてやると言っただろう。
 やめろと言うことを積極的にやっていくぞ」
「……ッ、」
花澤がここに来てから、一度も発散していないことは知っている。
煩悩を振り払うように、命をすり減らしていたことも。
風船になみなみと水を注いだ状態である彼に、
触れればはじけることなど容易に想像出来た。
……私にはもう恐れるものなどなにもない。
「……玉、森…!」
亀頭の先から、苦い走り露が漏れてくる。
海水の塩辛さと混ざり合い、この世でもっとも淫らな味がした。
花澤は片手で口を押さえ、荒れる息を必死になだめている。
…本当にずるい男だと思う。
「…!」
その目を見つめながら歯を立てれば、
花澤はぴくりと眉を震わせた。
「私にもして欲しい」
「……!」
「嫌か…?」
「……、できん、」
私は再びベッドに膝を立て、花澤に覆い被さる。
震える瞳がかつての私と似ていて、私は感情なく笑って見せた。
そんな彼に背を向け、反対の側から彼の性器を咥えた。
するとおずおずと、私の性器に触れられる。
かと思えば彼は私の尻たぶを開いて、穴に舌を伸ばした。
「ぁっ!……、!」
思わず腰を浮かせてしまったが、両腕でまた引き戻される。
…できんって、言ったそばから。
入り口を舌で広げられながら、強弱なく性器を握られる。
私は彼のものを掴んだまま、愛撫も続けられなくなっていた。
「ん、…っ……!」
たった1度しか受け入れていないのに、
簡単に口を開いていく私の身体。
…けれど目の前に立つ彼の性器を見ていたら、当然のことかとも思えてくる。
こんなモノに一晩突かれて、身体が忘れるはずがない。
これで私を埋めて欲しいと思うのは。さすがに極まりつつあった。
「…!!」
「……、」
私の中に、唾液を流しこむ花澤。
指を滑り込ませると、
知り尽くした私の恥部を潰すように撫でた。
「っ…、待って、……!!!」
「すまない…、」
逃げ腰を掴まれる。
私が身をよじればよじるほど、彼の性器は固く反り返っていく。
ただ両手を添えること以外、何も出来なくなる。
「……!!」
まだいきたく、ないのに。
私の性器は下向きに、絞られるように精子を吐き出した。
意識もしていないのに、きゅうきゅうと彼の指を締め付けてしまう。
溜め込んできた欲を全て吐き出した今、
自分がとんでもない格好で彼を誘惑していたことに気がついた。
…堪えている間、私はずっと息を止めていたのか。
私はやっと、呼吸をし始めた。
そんなくたびれた私を寝かせる花澤。
無言のまま遠ざかろうとする彼の腕を、私は力無く取っていた。
「……自分だけ綺麗でいられると思うな」
「……」
「今抱け」
「……、」
眉間を震わせながら、私に覆い被さる花澤。
「俺がどれだけ耐えてきたかを……お前は分かっていない」
「!」
「お前だけは……、もう傷つけられない、」
「さんざん私を見捨てておいてか」
「…!」
「簡単だろ。…あの時と同じだよ」
「……あの時の俺とは、違う」
「まだそんなこと……」
きつく抱きしめられる。
「今晩だけじゃ絶対にすまない。
 俺は毎晩お前を求める事になる」
「……」
「もう一度聞く。……俺で、いいのか」
「うん、」
「お前を道連れにしても、」
返事の代わりに、私は彼をきつく抱き寄せた。
私の中に、再び花澤の指が入ってくる。
絶頂を向かえたばかりで感覚を失っていたそこが、
彼の匂いと指の動きでまた熱を持ち始めた。
そうして指を引き抜くと、今度は自身を突き立てる。
押し広げられる感覚にもはや痛みはなく、
身体は簡単にあの時と同じ快楽を思い出した。
「はっ…!花澤っ……!」
「……!」
深く深く私の中に性器を沈めていく。
最奥を揺すられて、私の頭は真っ白に溶け出した。
…すごく、浅ましい。
ただでさえベッドなんて存在しないはずのこの世界で、
こんなにふしだらな音を響かせるなんて。
結局あらがえなかった性欲に、花澤も私も、胸を締め付けられる思いでいた。
「!!」
数回突き上げられたところで、
私の中にじわじわと熱が広がっていく感覚があった。
花澤の呼吸が乱れている。
私は奥底に、彼の体液を注がれてしまったようだった。
「にゃはっ、ど、どれだけ溜めて……」
「すまん……、」
再び私に覆い被さる花澤。
出した精子が泡立つほどに、花澤は私に身体を打ち付けた。
私もその背に爪を立て、肩を食み。
視界は涙でにじんでいく。
「はな、ざわっ…。…苦しいか……?」
「……っ、」
喘ぐように、彼は情けなく頷く。
私はさらに力を込めて抱きしめて、良かったと吐息でこぼした。
「私も、っ苦しいよ、…」
…苦しくなくっちゃ意味がないからな。
気持ちいいなんて言われたら、地獄の意義が無くなってしまう。
「…!!」
足を絡めて、力を込めてみる。
痛いほど締め付けながら、私はその耳に笑声を吹き込んだ。
「玉森っ……、」
「…?」
すると身体を離す花澤。
私を後ろ向きに横たえると、腰を掴んで身体を起こさせる。
そして私の身体を、性器に押しはめた。
「…まっ待って…!」
「……っ、!」
より激しく、身体が波打つほど打ち付けられる。
豪雨より激しい水音が、部屋中に染みていく。
…私は触れられてもいないのに、とうにまた射精していた。
花澤はその匂いにまた扇情されているようだった。
そうして彼は、勢いを早め、溜め込んでいた残りの熱を全てを吐き出した。
「……!!!」
なお擦り込むように抽送を繰り返す花澤。
徐々に性器を抜き出して、倒れるように横になった。
私は腕の中に引き込まれる。心まで、彼に近づけたような気がした。
「怖い顔するな」
「……、」
「笑え、」
「……無理だ」
全てを壊してまで手に入れようとした幸せは、結局彼には掴めず。
今こうして、奈落のそこにいる。
もし輪廻があるのなら、花澤はもう生まれ変わることはないだろう。
罪を背負いすぎた花澤に待っているのは、きっと、本当の地獄だ。
「私の前だけでは、笑っていてくれないか」
「……、」
「もっともっと、罪を重ねろ」
私につられて屈託無く笑え。
私を犯して、苦しいと嘘をつけ。
その白々しさを地獄の閻魔に見せつけて、より重い罪をかせられてしまえばいいんだ。
「お前は本当に…可笑しな事ばかり言うな」
「失礼な」
「俺を許してくれるのか」
「それを決めるのは私ではない。地獄の閻魔だ」
「閻魔なんて……、」
いつしか流れていた彼の涙を拭う。
それでも彼の涙は止まらず。私は彼が眠るまで、頬を拭い続けた。

涙が尽きる頃には嵐も過ぎて。
雫のような満月が、ぷかりと夜空に浮かんでいた。


…私はきっと今夜から。
兄を想うより深い気持ちで、花澤を愛し始めていた。

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夢之久作の作品に「瓶詰地獄」という題がある。
船が難破し、南の島に流れ着いてしまった兄妹のお話である。
二人きりの世界で、
兄は次第に妹の身体に性的魅力を覚えるようになる。
神を信じる兄妹はお互いにその思いを隠し合い、
三本の空き瓶に三つの手紙をしたため、ココカラ早ク救ッテクレと遠い海の向こうに馳せるのであった。

…私は今、手紙を書いている。
だがその内容は決してこの現実を嘆くものではない。
この世界に古代文明があったこと。海底都市には海底人が住んでいたこと。
人食い人種や、牙のある獣と戦ったこと。
まぁいもしない幻想を現実のように書き出せることが
私の文士的魅力であろう。
とにかくそんな日記の端切れみたいなものを、私はカルスピの瓶に詰めていた。

本日は待ちに待った晴天だ。
太陽も丁度真上にあって、海も平常心を取り戻している。
花澤を起こそうと近寄った瞬間、
彼はぎょっとした面持ちで目覚めた。
「!!!」
まるで昨日の私と逆転した構図である。
飛び起きた花澤は、きょろきょろと辺りを見回した。
「お、おはよう花澤」
「あぁ。……」
「どうした?」
「不思議な夢を見ていた…」
「……?」
花澤が夢の話をするとは珍しい。
しばらく挙動をおかしくしていた彼だが、ふと私の手元に目を向ける。
「?あぁ、これな。博士への手紙だ」
「手紙…、」
「ちょっと心残りがあってな。…あの人にちゃんと礼が言えればなって。
 だから気持ちだけでも伝えようと思う!」
ぽかんとした顔をする花澤。
私は浜辺へ出、ちょいちょいと花澤を手招きした。
足を砕いていようが手を貸してやることもない。
昨晩あれだけ元気だったんだ、心配する必要もないだろう。
「瓶には何を詰めたんだ」
「原始の空気と幻想奇譚を詰めてやった!氷川喜重郎サマ、と宛先付きでな」
「一体どう届けるつもりだ」
「富士に行く!」
「富士……?」
「これを氷穴に投げ入れるんだ」

…この世に不思議なことなんてなかったけれど。
いつかこの手紙を読んだら、博士はきっと喜ぶだろう。
私たちの親友を、少しでもわくわくさせてやりたいのだ。


「……馬鹿なことを、」
そう言って花澤は、目を輝かせて笑った。
こんな夢物語を、愛おしそうに。


 

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