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「誰も帰つて来ない黄昏」裏

玉森の目がない内に、俺は刀の手入れをする。
立て続けの嵐にしばらく小屋から出られずいたため、
陽の下に晒すのは実に三日久しぶりだった。
…刀身に、点々と黒い錆が浮かんでいる。
打ち粉も油もないこの時代では、刀も命を消耗していく。
「……、」
この黒い錆さえ俺の心を映しているようで、
隠すように、鞘に封じた。

小屋に戻ると、玉森は未だ寝ていた。
起こすつもりで近くに寄るが、やたら幸せそうな寝顔に俺は息を呑む。
しばらく起きる気配はない。
近くの椅子を引き寄せて、その寝顔を見下ろしていた。
「……」
時折にゃはにゃはと笑う。
夢の内容が顔に出るところは、昔から変わらない。
一体誰と話しているのか、そんなのはすぐに察せられて、
俺の心にまた錆が増えた気がした。

「!!!」
前触れなく、ぱっと目を見開く玉森。
その形相に意図せず動揺してしまう。
俺は偶然を装って立ち上がると、小屋の窓へ歩を向けた。

…嫌な目覚めにさせてしまったか。
そう深慮している傍らに、彼は駆け寄ってきた。
「快晴だ…!昨日の嵐が嘘みたいだな、」
「さすがにこの小屋も飛ばされるかと思ったが…。無事で良かった」
小屋の端と端には、木のベッドが二台。
狭いながらに、それぞれの居住空間を共有していた。
…俺が見つめていたことを、不思議にも思っていない様子の玉森。
きらめきを取り戻した海に、目を輝かせている。
「よく眠ったな、」
「もっと早く起こしてくれよ、」
「いや。…起きる様子がなければ1人で行こうと思っていたところだ」
俺が軍刀を揺らせば、ハッとした顔つきになる玉森。
そして慌てた様子で身支度を始めた。
「……本当について来る気か、」
俺の言葉に、玉森は強く強く頷いた。



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森は鮮やかだった。
土はまだぐずついたままだったが、
日差しは森の深部にまで届いている。
俺は玉森の手を貸しながら、目的の場所までの道のりを歩いていた。
木の根を越えられず苦戦していたかと思えば、
アッと明るい声を上げられる。
「さっきな、深海に行く夢を見ていた」
「また奇異な夢を、」
「それから……なんだっけかな?」
歩みに集中しろと、言わせる隙も与えてくれない。
玉森の夢の話は、俺を惹きつける彩度があった。
「泳げないのにどうして深海に行けたんだ」
「潜水具を着込んでいた。そう!陸では重たい潜水具で……ッて!!」
突然俺の胸に飛び込んでくる玉森。
どうやら小さな木の根に油断していたらしい。
…ごめんと笑う彼の肩を、俺は突き放した。
妙な間を作らぬうちに、言葉を続ける。
「先も言ったが。本当について来る気か?」
「あぁ!今日こそお前にシゴトを教わりたい」
「……、」
もう何も言うまい。
ついてくるなと願いながら、俺はさらに森を進んだ。

俺たちには食料調達という役割がある。
先日、玉森は種のわからないキノコを拾ってきた。
そこら中に生えているから、これを食料にできれば困ることはないだろう、と。
嫌な予感はしていた。
動物ですら食べ残すそれを、人間に食えるのかと。
その夜俺が腹を下したことから、玉森はこの上ない罪悪感を覚えたらしい。
鳥を捕まえられるようになりたいという彼のため、
今日は約束を果たしてやっているのだった。

「…?」
俺の迷いがあるうちに、最初の狩り場にたどり着いてしまう。
巨木は森を貫き、養分を必要とするあまり、他の木々は身を引いている。
すくんだように見上げる玉森。
ゴツゴツとした木肌は、まるで断崖の絶壁を思わせる。
俺は軍刀を置き、軽くなった身体で木に登りはじめた。
「あぁあ危ないぞ!!」
葉の中に鳥籠を仕掛けている。
十数秒で枝までたどり着き、籠の中身を確認した。
赤い鳥が一匹。
大きな羽を、窮屈そうにばたつかせている。それを腰に結んで、木肌を滑り降りる。
着地した俺に、玉森は恐る恐る近寄ってきた。
「!!!」
「だいぶ前に罠を張っていた。
 いつもお前が拾ってくる実があるだろう、この鳥はあれが好物のようだ」
「海老で鯛を釣るとは……」
「今からさばく」
「!」
鳥と見つめ合っている玉森。
俺は籠の入り口を浅く開いて足を掴み、外へと引きずり出す。
いつから閉じ込められていたか分からないが、
そう暴れる様子はなかった。
……平然としたふりをして、軍刀を鞘から抜きだす。
玉森がこの刃ではなく、鳥を見つめていたことは俺にとって幸いだった。
「…!!」
鳥の頸動脈に、軍刀を押し当てる。
羽と同じ色の赤い血が、大地に流れる。
俺は首を落とし、羽をむしり、その間各部位と刀の使い方を説明した。
ウンウンと熱心な物であるから、
俺も緊張を薄れさせ、より詳しく玉森に伝える。
そうして肉となった鳥を葉につつみ、玉森に手渡す。
やっと彼の目を見た時、彼がずっと白目でいた事を知った。
「覚えたか?」
「っえ!?あ、あぁ!?あぁ!!」
「…玉森は先に帰ってくれ。俺は他を見に行ってくる」
「仕掛け、まだあるのか……」
「3箇所にな。…一時間で戻る」
「それなら私も…!」
「腰が引けているぞ」
「!」
やはり、玉森には向かなかったか。
俺は何も告げず、玉森に背を向けた。
…せめて早く海辺に戻り、心まで洗い流して欲しい。


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「……!」
…俺は走っていた。
玉森が胸に飛び込んできた瞬間、香った彼の汗の匂い。
無意識に、俺を縋り見つめる目線。
全てを振り払うため、森の中を駆け抜けた。

そのうち目的の場所にたどり着いて、俺はぶつかるようにして木にもたれかかる。
きつく目を瞑り、
情欲に高鳴る胸を疾走によるものだと言い聞かせて、
俺は今日も平静を保った。
心が壊れそうになる度、彼に打ち明けたくなる。
この痛みを一緒に背負ってくれと、祈ってしまいたくなる。
…だが、あんなにも無雑な夢を見る玉森に、
どうして俺の悪夢を告げられようか。

お前を犯す、夢を見るなどと。

俺に性欲などない。なかったはずだ。
だがこの自然の中に順応して行くにつれ、
自分の抑えていた本心が。本能が。あらわになっていく。
…屋根を伝って落ちる雨だれの音さえ。
…風に揺れて擦り合う葉音さえ。
猥雑な妄想となって俺の頭を駆け巡る。
ここは地獄だ。
またあいつに……消えない傷を付けてしまいそうになる。
「……」
呼吸が整って、俺はやっと目を開けられる。
身体を翻して木に背を預け、まぶしい光を一身に浴びた。
…こんなことを繰り返しても、俺の心が浄化されるのは一時的だ。
あの小屋に戻れば、また黒い錆に覆われてしまう。
ならいっそ早々に……。
「……、」
いや、衝動的に行動するのはよそう。
あいつはまだ、俺なしではこの世界を生きていけない。
…俺が去るのは、あいつが一人で生きられるようになってからだ。

俺はまた、木と向き合う。
木のささくれに手足を掛けながら、枝を目指して登っていく。
最初にたどり着いた籠の中には、小鳥が二匹迷い込んでいた。
くくりつけていた蔓が切れたのか、
籠は枝先に引っかかっていて、今にも落下してしまいそうだ。
手を伸ばして届く距離ではない。
俺は左手で近くの蔓を掴み、身体ごと枝先に近づけた。
「……、」
鳥が羽ばたいて、籠が揺れる。
食う気などないと念じても、踊るように暴れ続ける。
なんとか指先が柵に引っかかって、たぐり寄せる事が出来た。
「…!」
だがふとした瞬間、
左手の力が抜ける。
その手は勝手に蔓を手放し、俺を緑の空へと投じた。
「!」
…この手は一度断たれていたのだった。あまりにも自然に動くものだから、
本調子でないことをすっかり忘れていた。
俺は落ちる最中に籠を壊す。
鳥を解放してやって、俺自身は地面にたたき付けられた。
「……」
重たい落下音が一つ。
それに驚いた鳥たちが、一斉に羽ばたいた。
俺の上を旋回する彼らは、一体何を思っているのだろうか。
いっそ死にたかったと伝えられたら、
どんな風に鳴いてくれるのだろう。
俺があまりにも危ういことを考えていたせいか、
そのうち彼らはどこかへ行ってしまった。

……俺にもまだ、帰る場所はある。
そうして立ち上がろうとしたところで、右足に違和感を覚えた。
「……、」
骨折程度ですむなんて。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


空の色が夜色に移り変わっていく。
俺は亡霊のように、森の中をひた歩いていた。
生ぬるい風が、南から吹き付けてくる。
…今夜も嵐が来るかも知れん。


玉森は腹を空かせているはずだ。
俺が何もとって来られなかったと知ったら、きっと絶望するだろう。
そうしてやっと、失望してくれるかもしれない。

波音が聞こえてくる。
森をかき分け出でたとき、俺の目に飛び込んできたのは浅瀬でもがく玉森の姿だった。
「!!」
竿を持っている、手放せないのは糸が絡まりでもしたのか。
腰から胸まで水に浸り、どんどん海へと引きずり込まれていく玉森。
俺は杖にしていた軍刀を放り、
彼の元へ走り出した。
沈みそうになる彼の手をとり、水から引き上げる。
信じられないことに、玉森は笑っていた。
ビャハハと笑いながら俺の胸に飛び込み、
照った目元で見上げてくる。
「なぜ早く離さなかった…っ」
「でっかい魚だったのだ!いやぁ惜しいことをした!」
「そんなことは聞いていない…!!なぜ竿を離さなかった!」
「せっかくの竿だぞ?簡単に捨てられるわけがない」
「……っ、」
針を食いちぎったのか、竿はぷかぷかと浮いている。
まだそれに手を伸ばそうとする玉森を、俺はきつく引き留めた。
「!」
「竿などなくても生きていけるだろう、」
「まぁそれもそうだが……」
「…もう、何もしなくていい……」
あと少しでも遅れていたら。
そんな最悪な場合を想像させてしまうのが、玉森だ。
絶対にしないと決めていたのに、俺は彼を抱き寄せそうになった。
「ごめん、」
「……」
だめだ。
「本当にごめん。怒ったか?」
俺の刀が、錆びていく。
「…焦ったか?」
「焦ったぞ」
「よし。それじゃあ今日も地獄の意義があるな?」
「…ふざけるな」
「にゃははは」
錆び付けば、もう元には、戻れなくなる。
「おい…?」
「……」
意図せず、身体が彼に傾く。
右足の痛みが、今更になって襲ってきた
「はっ花澤!?」
「すまん。右足を折って、均等がとれない」
「折ったって…!なななんで!?」
「……、」
黄昏が、夜の闇に飲まれていく。
今日は星のない夜になる。
俺は懸命に肩を貸してくれる彼の横で、不穏な空気を感じ取っていた。

ベッドにたどり着き、右足の様子を改めて確認する。
腫れ上がった足を見て当然の痛みだと納得すると共に、
認めてしまえば不思議と痛みが和らいだ。
俺よりも動揺しているのは玉森である。
「何があった…?」
「木から落ちた。…悪いな、獲物を全部逃がしてしまった」
「そんなこと気にすることじゃない…!」
「すまん」
「それより、足どうしよう…!?」
「固定すれば治るだろう」
軍刀から刀帯を外し、真っ直ぐ伸びた小枝と一緒に足へ巻き付ける。
手当が終わると、俺よりも安堵した面持ちでいる玉森。
その視線と目が合う前に、俺はベッドに横たわった。
玉森は、俺のそばを離れようとしない。

「……」
「……、」

波のさざめきに、雨音が混じる。
俺たちが静まれば静まるほど、雨脚は強くなっていく。
雨だれは規則的に。
一定の響きを持って。
土を窪ませていく。
……発狂しそうになった。
今にも泣きわめいてこの耳をそぎ落としてしまいたくなる。
だのに玉森の目が、それを許してくれない。
「お前はずっと……笑わないな、」
「……」
玉森は、泣きそうな声でそう言った。
「実はちょっとだけ、期待してただろう?」
「……」
「でも…この世界には何もなかったな」
海底都市も。
見果てぬ荒野も。
未知の人種も、未知の動物も。
玉森が夢見る世界に、俺は最初から、期待など、していなかった。
この絶景のどこが地獄だと、何しに俺を連れてきたのだと、
問いたいほどであったのに。
「ここは、地獄だ」
「……、」
一日目にして、玉森への愛おしさを思い出した。
幼い頃のように俺を頼り、俺を呼ぶその声に、自分が本来何者であったかを思い出したのだ。
二日目にして、彼の美しさに気がついた。
白肌に絡みつく黒髪と、遠く海を見つめるその横顔に、俺は、欲情していた。
「いっそ死にたいと思う」
「…!」
「今日も死ねなかった」
「……」
「なぜお前は、……。…笑っていられるんだ」
「私は……」
「お前は楽しんでいる、」
俺といることを。
俺の気も知らず。
俺に強要する。
「俺は人殺しだ、」
玉森は俺の横で突っ伏した。
「だからずっと、ここで苦しんでいろ」
「なぜ俺と一緒にいられる」
「……」
答えなかった。そしてくぐもった声で、「頭を冷やせ」と呟かれる。
「お前まで地獄に付き合う必要はない」
「……、」
返事がないのなら……それを返事と捉えよう。
俺はベッドを降りた。
杖も何も要らない。この足すら砕け散ってもいい。
そんな心地で外へ出ようとすれば、
玉森が俺の腕に縋りついてきた。
その目は不安に揺れ、口は呆然と開かれている。
……玉森にとって俺は仇であるのに。それでも彼が、俺を引き留める理由。俺にはよく分かる。
「…出て行く場所がないから、ここに集っているだけだ」
「違う、」
「だから俺が出て行く」
「話を聞いてくれよ…!」
「なら俺の質問に答えろ、」
「…!」
俺には、玉森の感情が分からない。
気持ちが分からないゆえに、理解も出来ない。
もし逆の立場なら俺は……俺を殺している。
そして俺がこんなにも渇望しようと、彼が答えてくれないことは分かっていた。
「…軍刀も置いて行く。使い方は、昼に教えただろう」
「逃げるな…」
「……」
「……行かないでくれ、」
その声に引き留められると、俺の身体は動けなくなる。
…玉森の前では、完璧でありたいと思い続けていた。
だが……。
「俺はもう、お前を友として見られない」
「!」
玉森の腕を振り払ったこの手で、彼の頬に触れる。
じっと汗ばんだ肌に、手の平が吸い付く。
この指が唇に触れたとき、玉森は、目を丸くして身を引いた。
…玉森に今、俺の気持ちが伝わってしまった。
そして俺は、彼の反応をよく理解出来た。
「……俺は最低な男だ。
 俺がしたことを、…よく思い出せ」
「……、」
「…忘れたとは、言うまい」
「忘れた、」
「……」
「それに本当に最低ならとっくに私を……」
胸ぐらを掴む。息のかかる距離まで顔を近づければ、
玉森は案の定、恐怖に声を震わせた。
「は、…花澤、」
「……」
…俺がどれだけ簡単に人を傷つけられるか。
玉森に再度知らしめるつもりで、彼のボタンを一つ外した。
「…!」
それから玉森を突き放して、俺は一人、豪雨の中に飛び出した。
波は逆巻き、雷光に空は閃く。
…もう、これまでだ。
俺は俺を保てない。
俺が俺のままでいることを、この自然が許してはくれない……。
だのにまだ、こんな俺を追う足音が聞こえる。
「教えてくれよ!!」
「……」
「言っただろ!!いつかの私に、伝えるって……!!!」
お前を、好きでいた理由を。
「花澤!!!」
ついに玉森は、俺を追い抜いて立ちはだかった。
「……」
どちらともない沈黙。
海が嵐にかき乱されて、俺たちを飲み込もうと荒れ狂う。
玉森は波に背を押されたように、俺の胸に寄り添った。

…玉森は覚えているだろうか。
最初に俺の胸に飛び込んできたのは、お前だったこと。
祖父に泣かされたと言って、俺に慰められに、やってきてきたことを。
それ以来俺はお前を慰める常套手段として、
こうして、何度もこの腕に引き入れてきた。
でも俺が手に入れたのは、お前の信頼だけじゃない。
俺はお前という、かけがえのない存在を手に入れたのだ。
「お前は、俺の弟だ」
「……、」
「お前だけが……。俺の全てだった」
勉強部屋の窓を叩いて、お前は俺に慰めてくれという。
父から譲られた懐中時計を、横からかすめ取っていく。
「あんなに、困らせたのにか」
「あぁ」
それでも俺は。何をしようと玉森が愛おしかった。
「こんなに…今だって、…苦しめているのにか」
俺は言葉の代わりに、玉森の身体に腕を回した。
そしてきつく、抱き留めた。
「私も、兄だと思ってるよ」
「……」
「ずっと憧れていた。…眼鏡も、口調も、お前に似せて。
 会えない間も、……お前を想っていたよ、」
「…お前が憧れていたのは、俺の虚栄だ」
本当の俺は……。
「今の花澤が、一番好きだ」
「……、」
「私の兄にふさわしい
 一緒にここで、苦しもう」
守っているつもりだったのに。
「俺で、いいのか」
傷つけても。
後悔させても。
…道連れにしても。
「いいんだよ」
俺が欲しかった言葉は、
自己犠牲という血色に染まったものではない。
だが今俺は、玉森の言葉に、救われていた。
「……、」
口づけられる。
柔く小さな唇が、俺の唇を食む。
背伸びを解くと、玉森は揺れる瞳で俺を見つめた。
「花澤、しよう」
「……」
「…兄と、弟のままで」
本当の兄ならば、その手をきっと払うのに。
俺は、
心が錆びて朽ちる音を聞いてしまった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


ベッドに座ると、向かい合うようにして俺の膝に乗ってくる。
彼の真っ直ぐな目を見られないままでいると、突然頬を包まれる。
そして先ほどより深い口づけで押し倒された。
…熱く、今にも解けそうな舌が俺の口内をくすぐる。
性急な口づけに動揺し、思わず顔を背けてしまう。
「玉森……、」
「何もしなくていいよ、」
「……、」
「花澤は卑怯者だからな。
 …そのまま黙って、私のせいにすればいいのだ」
…言葉も、返せない。
玉森は身体を南下させて、俺の腰元に触れる。
ベルトを外して、浅くズボンを下ろし、俺の性器をまじまじと見つめた。
しらっと笑う玉森。
俺は既に衣を解いた彼を見て、身体の芯を昂ぶらせていた。
彼は嫌な顔ひとつせず、易々と口に含む。
「…!」
その仕草に、迷いは感じられない。
俺の顔色をうかがいながら、傘の裏を舌でまさぐる。
たまらず俺は、髪を掴んで引き離した。
「やめろ……!」
「地獄に落としてやると言っただろう。
 やめろと言うことを積極的にやっていくぞ」
「……ッ、」
いつもの声音でそう語るから、余計に背徳感にしめつけられる。
…俺はここに来てから、熱を発散していない。
一度でも煩悩に染まってしまえば、二度三度と自分を甘やかすようになってしまうからだ。
「……玉、森…!」
先走りの露を管から吸い上げられる。
ためらいなく不徳を積む玉森の姿に、
俺は情けなくも扇情されていた。
…片手で口を押さえ、荒れる息を必死に飲み込む。
「…!」
ふいに俺の目を見たかと思えば、
裏筋に歯を立てられた。
「私にもして欲しい」
「……!」
甘えた声で、そう言う玉森。
時計をねだるのと同じような声色に、俺は背筋の凍る思いがした。
「嫌か…?」
「……、できん、」
すると再びベッドに膝を立て、俺に覆い被さる。
絶句する俺を見下ろして、満足そうに微笑んだ。
それから俺に尻を向けたかと思うと、表側から俺の性器を咥える。
唾液をこぼしながらも、夢中で舌を這わす彼。
俺がおずおずと性器に触れれば、玉森の身体がぴくりとはねた。
…欲が溜まっていたのは、俺だけではなかった。
目の前で揺れる尻を割って、穴に舌を伸ばす。
「ぁっ!……、!」
腰を浮かせた玉森だが、両腕でまた引き戻す。
嫌がる腰を押さえていると、次第に悦を感じ始めたようだった。
性器をしごけば、
玉森は俺のものを掴んだまま、愛撫もできずに突っ伏した。
「ん、…っ……!」
すぼまっていた入り口が、ゆるゆると広がっていく。
次第に俺を求めるように、ひくひくと動きし始める。
「…!!」
「……、」
いつからか溜まっていた生唾を、彼の中にうずめる。
押し込むように指を滑り込ませると、
性器の裏側を柔く撫でた。
「っ…、待って、……!!!」
「すまない…、」
玉森が感じれば感じるほど、俺の心が昂ぶっていく。
触れられるよりなにより、玉森の暖まった吐息が心地良い。
「……!!」
俺の手の中で、さらに固くなる玉森。
逃げ腰を押さえつけ、舌と指でまさぐる。
…すると玉森は小さく声を上げて、俺の胸に射精した。
俺の指と舌を、吸い上げようと動く彼の身体。
この中に包まれたら、
俺は十秒と持たないだろう。
…熱に潤んだ瞳で、俺を見つめる玉森。
俺がその場を去ろうとすれば、力無く腕に触れられる。
「……自分だけ綺麗でいられると思うな」
「……」
「今抱け」
「……、」
今ここに、玉森の気を狂わす薬はない。
痛みを誤魔化す、方法もない。
だのに俺は、玉森の一言を聞き逃すことはできなかった。
ゆっくりとまたがって、
その白い身体を眼下に収める。
……やはり俺には、彼がいつまでも幼い無垢に見えた。
「俺がどれだけ耐えてきたかを……お前は分かっていない」
「!」
「お前だけは……、もう傷つけられない、」
「さんざん私を見捨てておいてか」
「…!」
「簡単だろ。…あの時と同じだよ」
「……あの時の俺とは、違う」
「まだそんなこと……」
きつく、彼を抱きしめる。
「今晩だけじゃ絶対にすまない。
 俺は毎晩お前を求める事になる」
「……」
毎晩、狂おしい夢を見る。
あの時の行為をなぞるような時もあれば、
目覚めてすぐに彼を抱く夢を見るときもある。
…俺はとっくに、壊れていたのだ。
「もう一度聞く。……俺で、いいのか」
「うん、」
「お前を道連れにしても、」
玉森は、俺に手を伸ばし。そうして屈託なく、微笑む。
その肩口に顔をうずめれば、彼の方から抱き寄せてくれた。
…絶頂したばかりの秘部に、再び指を差し入れる。
二本、三本と俺を招き入れ、次第に呼吸を荒くする。
そのふやけた声を聞いて、俺は指を引き抜いた。
そしてすでに先走りの熱を帯びた性器を、彼の中にうずめた。
「はっ…!花澤っ……!」
「……!」
彼の顔の横に、両手をつく。
玉森は眉をハの字に歪ませて、ゆっくりと俺を飲み込んでいった。
不安になるほど熱い体温と、繰り返す収縮に、少しでも速度を速めればいってしまいそうになる。
…たどり着いた最奥で、数度腰を揺する。
玉森の短い嬌声に、胸を締め付けられる思いがした。
徐々に、徐々にと腰を振る。
腕の中でどんどん火照っていく彼に、この上のない愛おしさを感じた。
「!!」
数回突き上げたところで、
堪え切れずに射精してしまう。
放ってしまったそれを止められず、俺は最後まで注ぎ込んだ。
「にゃはっ、ど、どれだけ溜めて……」
「すまん……、」
これから何度、謝ることになるだろう。
切りが無いとわかっていながら思いだけは伝えて、
俺は玉森に身を倒した。
…出した精子が潤滑剤となり、幾分か動きやすくなる。
その精子が泡立つほどに、俺は玉森に打ち付けた。
俺の身体に擦られて、彼の性器もまた膨らんでいく。
「はな、ざわっ…。…苦しいか……?」
「……っ、」
頷く声が、まるで喘ぎのようで。
玉森はそれが可笑しかったのか、良かったと楽しそうに呟いた。
「私も、っ苦しいよ、…」
恍惚とした声で。
玉森も俺も、嘘をついた。
「…!!」
突然腰に、足を絡みつかれる。
すると引きちぎらんとするように、強く締め付けられる。
俺が苦しい声を上げれば、玉森はこの耳に笑声を吹き込んだ。
「玉森っ……、」
「…?」
身体を起こし、その締め付けから性器を引き抜く。
腕の中で玉森を後ろ向きにし、腰を掴んで、俺の性器へと引き寄せる。
「…まっ待って…!」
「……っ、!」
向かい合うより深く、玉森の中に身体をうずめる。
そしてより激しく、彼の身体が波打つほど打ち付けた。
…雨より激しい卑猥な音が、部屋の隅まで、染みていく。
玉森が二度目の射精をすると、
辺りに彼の匂いが広がる。
羞恥を思い出し、昂奮しきる彼。けれど痙攣を止められない姿に、
俺は溜め込んでいた熱を全てを吐き出した。
「……!!!」
玉森の中を傷つけないよう、ゆっくりと抽送を繰り返しながら抜き出す。
なお玉森を愛おしく思った俺は、彼の横に身体を横たえ。
腕の中に彼を引き込んだ。
そんな俺の顔を見上げ、いつものように微笑む彼。
「怖い顔するな」
「……、」
「笑え、」
「……無理だ」
俺には、幸せになる権利などない。
全てを救うために全てを捨てる覚悟があったのに。
その志の途中で、心折れた俺になど。笑顔が戻るはずが無い。
「私の前だけでは、笑っていてくれないか」
「……、」
「もっともっと、罪を重ねろ」
罪…。
笑うことが罪とは。
「お前は本当に…可笑しな事ばかり言うな」
「失礼な」
「俺を許してくれるのか」
「それを決めるのは私ではない。地獄の閻魔だ」
「閻魔なんて……、」
いるのだろうか、本当に。
まだ出会えていないだけなのならば、ここは地獄の縁だと言うことか。
…いつからか俺は泣いていたようだった。
そうだと気づいても涙は止まらず。
玉森はその手で。その唇で。
俺の涙を、掬い続けてくれた。

…俺はきっとこの夜から、
弟を想うより深い気持ちで、玉森を愛していることに、
気がついてしまった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


「!」
ふと目覚めると、俺は浅い海にいた。
緑の海草が視界をそよいで、呼吸をすれば白い気泡が舞う。
すぐ隣には、玉森が眠っている。
陸では重たい潜水具だが、近未来を思わせる博士らしい形状だと思う。
…玉森を起こすのはよそう。
俺は再び、水天井に目を向けた。今まさに鯨が通り過ぎて、太陽が顔を出している。
不思議だ。
俺は目が悪いはずなのに、海面も気泡も。そして玉森の顔もくっきりと見える。
ふと身体を起こせば、玉森ものろのろと起き上がる。
「何故だろう、目が治っている」
「おお。この世の不思議がまた一つ増えたな」
「ありえん」
「でもありえている、」
「ならばこれは夢だ」
「はぁ。お前はなんでも夢だと疑うな、」
「……、」
夢。
間違いない、これはきっと夢だ。
目覚めた心地で玉森を見やれば、彼は呆れたように再び寝そべった。
「何がお前を、そんなに意固地にさせているんだ?」
「……、」
「本当のお前は私と同じくらいの馬鹿なはずだろう?」

「本当の、俺……」

そう呟いた瞬間、俺は病室にいた。
薬品の匂いがぽかぽかとした陽気と混ざった、
痛く懐かしい匂いだ。
右手には母の櫛。左手には、細い黒髪。
俺が手を止めるていると、幼い川瀬は不思議そうに振り返った。
「してー」
「……、」
固まった髪を梳かせば、黒々と色づく。
櫛がすべる感覚が、くすぐったくも気持ち良いらしく、
彼は機嫌良く肩を揺らした。
だがふいに、忌々しそうな顔で隣のベッドを見やる。
隣のベッドの少年は先ほどから、俺たちの様子を見つめていたらしい。
「顔中どろんこだー」
「殴られたの」
「殴りかえせ!」
そう言って、枕をたたきのめす玉森。
その騒々しさに、
川瀬はチッチッチッチッと舌打ちをして、苛立ちに肩を揺らし始めた。
…俺は父に、玉森と目を合わせぬよう言われていた。
俺にとって父の言葉は絶対だった。
父の言葉に逆らう事など、当時の俺には考えもつかない選択だった。
…玉森と川瀬は言い争った。
俺は磨くように髪を梳き続けた。
向かいのベッドで彼らの様子を微笑んで見つめる水上を見て、
俺は心底羨ましく思えた。
…俺には彼らに混ざる勇気はなかった。
玉森に目を合わせることもできなかった。
父に言われたことは、絶対であるから。
俺はどんなに玉森の話に惹かれても、どんなに笑いたくなっても、
必死に前だけを見続けた。
そのうち廊下から、大人の足音が聞こえてくる。
「八々郎、そろそろ勉強の時間だ」
「…!」
「来なさい、」
優しい声で、父は俺にそう言った。
…俺が父を信じていたのは、父が俺を愛してくれていたからだ。
良い成績を収める度に、懐中時計を。短刀を。
高い壁を飛び越える度に、数学書を。医学書を。
…だが今、この澄んだ眼で見て初めてわかる。
俺と父は、間違っていたのだと。
俺は梅澤家待望の男子だった。
父は子を作るたびに我が息子への理想を高め、
俺が生まれる頃には凝り固まった軍人像が出来上がっていた。
…本当の俺は玉森の言う通り、冒険好きの、頼られたがりの、
馬鹿な男だった。

「まだ、玉森たちと遊んでいたい」

許されるなら、この夢の続きを……。


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「!!!」
ぎょっとした面持ちの玉森。
飛び起きた俺は、高鳴る胸に手を当てた。
…ひどい寝汗だ。
シャツが見当たらずに探していると、
玉森は気恥ずかしそうに手渡してきた。
「お、おはよう花澤」
「あぁ。……」
俺が寝ている間に、川で洗ってきてくれたようだ。
すがすがしく着替えたはずなのに、
頭痛を覚えて目頭を押さえた。
「どうした?」
「不思議な夢を見ていた…」
「……?」
どんな夢だったかは、思い出せない。
ただいつもより、満たされた気持ちでいる。
しばらく動揺の内にいたが、ふと玉森の手元が気になる。
カルスピの瓶の中に、ノートの切れ端一枚。
あまり大事そうに抱えるから、何事かと目を凝らした。
「?あぁ、これな。博士への手紙だ」
「手紙…、」
「ちょっと心残りがあってな。…あの人にちゃんと礼が言えればなって。
 だから気持ちだけでも伝えようと思う!」
一体、何を言っているのか。
博士と言えば夢にも名前が出てきた気がする。
ということは俺はまだ、夢の中にいるのか。
そう問おうとすれば、玉森は浜辺の方へ駆けていく。
俺の方を振り返ると、出てくるように手招きされた。
俺が足を折っているのを忘れている風だ。
「瓶には何を詰めたんだ」
「原始の空気と幻想奇譚を詰めてやった!氷川喜重郎サマ、と宛先付きでな」
「一体どう届けるつもりだ」
「富士に行く!」
「富士……?」
「これを氷穴に投げ入れるんだ」
…玉森の空想は、突拍子もない。
俺が壊せないと思って居る壁を、簡単にすり抜ける。
父は俺が玉森の虜になることを、きっと恐れていたんだろう。
現に俺は今、彼の提案に心を躍らせている。

いつかの博士は、驚くだろう。
何となく掘り出した場所から、まさか自分宛の手紙が出てくるとは。
膝から崩れ落ちるんじゃないだろうか。
さすればあいつも俺のように、
兵器ダなんだなんて考えはやめて。航時機を作ってここまで会いに来てくれるかもしれない。
違いない。
…あぁ、俺も随分。

「……馬鹿なことを、」
弟の玉森が馬鹿なら、兄の俺は大馬鹿か。
俺が笑えば、玉森も楽しそうに目を細めた。

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