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「無限に利く望遠鏡」表

最初に鼻が目覚めた。
それから薬品の匂いを嗅ぎ取って、ここが手術室だということを思い出す。
目を開けようにも、なぜか力が入らない。
真っ暗闇の中で眼球を回していると、
外からまぶたをこじ開けられた。

「おはよう」

「……、」
逆光に、白衣に身を包んだ川瀬が浮かび上がる。
光があまりにまぶしくて、
眠気など一瞬にして吹き飛んでしまった。
そうして思い出したこの現状に、私は勢いよく飛び起きた。
…いくら麻酔を打たれていたからといって、
怠惰に眠り続けるなど自分の浅ましさに嫌気がさす。
そんな私の具合を見てか、川瀬はマスクの中でため息をついた。
血濡れた器具を片付けながらも、
私に鏡を手渡してくれる。
「目の動き、確かめて見て」
「動き…?」
「義眼が入ってるから」
手術室にふさわしい、簡素で質素な鏡だ。
摘出したはずの左目には黒い瞳がはめ込まれている。
川瀬もこちらをのぞき込むと、大げさに手を動かして私の目を追わせた。
「痛みは?」
「ない、」
「ごろごろしない?」
「全くもって」
「そう。可動性も問題ないみたいだね」
「しかし義眼なんて聞いてないぞ」
「君って馬鹿だから、傷口をいじくり回しそうだと思ってさ」
「うんまぁ……。
 だがさすが川瀬だな、」
「…たまたま池田邸にあった医学書を参考にしただけだ。
 下向くと落ちるかも知れないから、気をつけるんだよ」
「その心配はない」
袂の中から黒い眼帯を取り出す。
博士がいつもそうしているように、私も左目にあてがった。
「お似合いだよ、ほんと」
「博士はどこにいる?」
隣の手術台が空いている。
直前まで彼と何かを話していた気がしたが、随分前のことのように思えてしまう。
少し急いて問いかければ、川瀬は億劫そうに応えた。
「部屋で待ってるってさ」
「手術は!?」
「成功だ。残念だけど」
ピンと、頭のてっぺんを吊られたような心地になる。
私は手術台を降りると、川瀬の横をすり抜けた。
「おい!俺に言うことあるでしょ!」
「よく私たちに触れられたな、」
「直接触ってないからね」
そう言いながら川瀬は血濡れた器具の消毒を始めた。
目を開かせる器具なんてのは、まるで拷問具である。
それを臆することなく扱えるなど、常日頃拷問官のように振る舞う姿は伊達ではない。
「後片付けは任せたぞ」
「君死ねば?」


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左目をふさいだせいか、廊下が右に傾いて見える。
いつもと違って見える世界の中、私は博士のことを考えていた。

…彼の左目が悪化したのは先週のことだった。
車の運転を部下に任せたことを問うている中で、
視界が狭まり暗所を一人で歩けなくなっていることを打ち明けられた。
私が問い詰めなければ、彼はきっと黙し続けていただろう。

川瀬が医師として成熟するのを待っている余裕はなかった。
そしてその決断は正しかったんだと、
心から思える。

寝室の扉を開けると、博士は窓辺に立っていた。
私の早急な靴音に振り返ると、にこにこと応えてくれる。
細めていた目を開くと、そこには黒々とした瞳が光っていた。
私の左目は青かったはず。
橋姫の効力は、その目に引き継がれていないようだった。
それがなにより「博士の一部になった」という証拠のように思えた。
彼に駆け寄ったつもりが、最後の二歩を恐る恐ると忍んでしまう。
「どう、ですか」
「問題ありません。ほら、こんな動かせますよ」
「良かった…。川瀬の腕は本物だ」
「えぇ。彼は素晴らしい外科医です。
 途中、僕の麻酔が一時的に切れてしまった様な気もしましたが、勘違いでしょう」
分量を間違うなんてことあるのだろうか。
博士に花澤をとられた彼だから、私怨から、なんてことも察せられる。
だが時限爆弾でも仕掛けられてない限り、
移植手術は確かに成功したようだった。
…川瀬はまだ、医学部生徒である。
これを輝かしい功績の一つとして数えて欲しかったが、
どうも上にバレると問題になるらしい。
それでもなぜ彼が引き受けて切れたかというと……。
「!」
ぱっと笑顔を浮かべる博士。
振り返れば、部屋の入り口に川瀬が立っている。
痰を吐くように手袋や白衣、マスクを脱ぎ散らかし、
扉にもたれてため息をついた。
「全額、現金で、俺に手渡しに来い」
「は、はい。その約束でしたね」
治療費として要求されたのは、氷川邸の貯蓄三分の一。
博士が問題ダと困っていたのは支払額ではなく、
その受け渡し条件が「現金」「手渡し」ということだった。
「週明けには。
 でも車一台に収まらないかも知れません…」
「だったら何度も往復して池田邸まで来るんだ」
「そんなに博士を困らせたいか、意地悪なやつめ」
「何その態度…。あぁ、寄生虫が宿主を心配するのは当たり前かぁ」
「なんとでも言え」
「け、喧嘩しないでください。
 それより川瀬くん。こんな僕のために尽力してくださって、ありがとうございました」
静かに私たちを諭す博士。
川瀬は何も言わず、私たちの視界から出て行ってしまった。
「お礼は言わないほうがいいんですよ」
「えぇ?」
「ちゃんと対価は支払うのだ。だからあんまりあいつに貸しを作ったように思わせたくない」
「でも…」
「私と川瀬はそう言う関係なのです」
私は窓辺から離れると、ベッドの方に腰掛けた。
博士は微笑んではいるけれど、私の想像していた反応ではなかった。
……もっと、喜んでくれると思っていたのに。
私はなんだか疑わしくなって、彼にある問いかけをしてみた。
「この指、ちゃんと見えますか」
「はい。三本立っています」
「これは?」
「四本と三本」
「じゃあこれは?」
「えっと……茶摘み農家?」
「いいえカタツムリです」
右手の中指と人差し指を立て、
甲に左手の拳を置けばカタツムリのできあがりである。
博士は苦笑するが、
いつもように大げさな笑声は上げてくれなかった。
「回復祝いには何が欲しいですか?」
「祝いだなんて…」
「私にできることならなんでも言ってください」
「僕の方こそ君に感謝の気持ちを…」
「必要ありません、だって当然のことですから」
「当然の…、」
顔をうつむかせ、左目のまぶたに触れる博士。
憂いに満ちた表情で、彼は不安そうに口を開く。
「本当に…。……僕で良かったんでしょうか」
「……、」
言葉の真意がわからない。
理由を問いかけようとすれば、突然電話のベルが鳴る。
「私が…」
「僕が出ます」
…彼の憂慮の理由はわからないが、私は満足感に満たされていた。
確かな足取りで、受話器に向かう博士。
あちらが一方的に話しかけてくるのか、博士が頷く側に徹している。
内容にさして興味はなかったが、
こぼれ落ちそうなまでに開かれた目が心配になる。
私は手で皿を作り、いそいそと彼の近くに寄る。
彼は神妙な面持ちで受話器のコードをねじり続けていた。
エェ、
アァ、
ハァ。
終始変わらぬ表情で、受け答えをする博士。
…悲報か。吉報か。
受話器を置くと、一呼吸をついたのちまぶたを閉じる博士。
落ち着いた、と思いきや。
それから私の肩を掴み、ここ一番に目を見開いた。

「玉森くん、どうしましょう…!」
「!?」

悲報でも吉報でもなく、博士は朗報に驚嘆しているようだった。


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博士は今年に入って、対地震兵器イザナギを完成させた。
検証には陸軍の研究者だけでなくイギリスの研究者たちも迎え入れ、
二ヶ月間サガルマータの麓で実験を行っていたらしい。
…ラシイ、というのも私が私に成り代わったのはたった四ヶ月前のことであるから、
それ以前のことは詳しくわかっていない。

イザナギは世界各地に設置され、今も地震地帯を鎮めているという。
イザナギの力は、実験の成功とともに証明されたのである。
そしてその噂はイギリスの研究者を通して偉大なる某学者に伝わったようで、
学者たちから世界的な某平和賞への推薦を得たのだという。
イザナギの力のみならず、
軍備を平和利用したことが評価された理由だという。

…もし受賞に至れば大変名誉なことである。
帝都中が、この前夜を祝わずにはいられなかった。

祝うことといったら何か。
それは太古から変わらぬ「祭り」であろう……。


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朗報があった翌日の昼、
氷川邸に陸軍の手配した使用人たちが入ってきた。
室内全てに光が入り、持てあましていたダンスホールなるものの全容を見た瞬間は、
さすがの私も絶句した。
調理場や談話室まで使用人の手が入り、長年のホコリが落ちていく。
博士にこんな日が来る事を、この邸宅は分かっていたのだろうか。
壁に張りつく蛇の目さえも、今日はニコニコと微笑んでいるように見えた。

夕方にもなると、博士を訪ねて続々と客人が集まってくる。
陸軍上層部のお偉いさんが彼の周りを虫のようにたかっているが、
当の本人は愛想笑いを浮かべている。
気の置けない部下たちはまだ来ておらず、
本来人付き合いの苦手な博士は随分息苦しそうである。
談話室でもない、玄関ホールの入り口で引き留めるとは随分失礼な連中である。
そんな博士を階段上から眺めていると、彼がふとこちらに気がつく。
蚊柱を会釈で切り抜けて、私に向かい階段を上がってくる。
……逃れたいつもりなら、もっとうまく切り抜ければ良いのに。
私はわざと廊下まで出て、博士の退路を作った。

「呼ばれたフリをして、逃げてきました」
「あまり相手にしない方がいいです」
「…開発費を出し惜しみしたくせに、今更自分の手柄にしようなんて」
「これからはもう、陸軍に頼る必要はないんじゃないですか」
「そうですね。
 研究所を独立させてしまうのもいいかもしれません、」
私の手をとり、声を昂ぶらせる博士。
…手袋の柔らかい感触に、毎度毎度どきりとする私もいかがな物か。
「それと博士……。
 アレ、絶対に使用しないでくださいね」
「?」
「今日はあなたの大事な日なので」
「え、ま、まさか、今日も、し、してくれているんですか…?」
「…日課、ですから」
「あぁあ!!!」
「いいですか、あなたの名誉のためです!
 万が一ばれて、おかしな研究家だと思われたくないでしょう」
「ご心配ありがとうございます!」
主語のない約束は実に不安だ。
私は博士の小指に小指を絡めると、
素早く切ってこの場を立ち去った。

「どこに行かれるんですか!」
「部屋でしばらく休んでいます」
「今日はずっと、僕のそばにいて欲しいです」
「……、」
「だめ、ですか?」
「私は研究員でもないですし、あなたの近くにいるのはおかしいでしょう」
「ですが…」
「今日の主役はあなたなんですから。
 私のことは気になさらず」
「…わかりました、」
心細そうな声でそう言う博士。
私が背を向けて会話を終えれば、近くで待機していた使用人が博士を即座に捕まえた。
今日の彼は忙しくなるだろう。

寝室だけは、使用人たちの手が入った形跡は無かった。
灯りも点けずに横になり、すると自然とあくびが漏れる。
それからゴロゴロと転がり、博士の匂いで箪笥の匂いを塗り替える。
幾分か落ち着いた所で窓の外を見やれば、おぼろ月が浮かんで見えた。

風が強い。
外から吹く空気の冷たさは、10月の風と思えない。
……今夜は嵐が、帝都をかき乱すのではないだろうか。


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博士と私の関係は、端から見れば異常だろう。
何も知らぬ者から見れば、金持ちが男を飼っているか。
もしくは自堕落な男が、金持ちを騙しているか……。
今日は各新聞記者が招かれているという。
おかしな詮索を入れるのが彼らの仕事であり、
必ずしも博士の味方というわけではない。
いわば私は博士の暗部であるから、こうして物陰に隠れているのが正解なのである。
…だが。

部屋中、そして廊下に至るまで配置された伝声管から、
陽気なジャズが流れ出す。
私は暗がりの中むくりと起き上がり、
ぼうっと辺りを見渡した。
…喉が渇いたな。飲み物でも貰いに行こう。


そうして一歩部屋を出るや、私は愕然と目を見張った。
着飾った人々が、廊下を悠々と歩いている。
婦人に紳士に、およそ博士の知り合いとは思えぬ美人まで。
祭り好きが祭り好きを呼び、祭りをさらに盛り上げている。
私にはまるで明治の亡霊のように思え、怖々とその場を逃れた。

そもそも邸宅にいるのが間違いだった。
今日は車の中で寝て、落ち着いた朝には戻ってこよう。
そんな思いで廊下をすり抜けていると、
突然襟を後ろから引っ張られる。
まさにお化けにつままれた気持ちで振り返れば、
花澤が私を見下ろしていた。
「玉森、」
「花澤!お前も招待されてたんだな!」
「あぁ。どこへ行く気だ?」
「そ、外へ…。ちょっと頭を冷やしにな」
「今夜は嵐だ。頭を冷やすには丁度良いかも知れんな」
「ちょちょっと待った!」
「?」
「花澤こそ、珈琲持ってどこに?」
花澤は片手に二つ、珈琲カップを持っている。
「3階の書庫だ。お前も来るか」
ウンウンと頷けば無言で花澤は先へ歩き出す。
花澤より背の高い者はおらず、彼が動けば人混みが勝手に割れてく。
私はその後ろをついて、3階へと向かった。

3階の書庫にはソファが運び込まれ、
談話室へと変えられていた。
音楽は外とは違って哀愁のこもったクラシックが流れ、
みな喧噪に疲れたのか深々とソファに埋もれていた。
煙草の煙が充満し、部屋の奥まではっきり見えない。
そんな中をひた歩き、花澤はとあるテーブルに珈琲を置いた。
「……」
私が来た事も、珈琲を差し出されたことにも気がつかず、
本を読みふける水上。
彼の対面には私を睨む川瀬。
花澤が一番奥の席に座ったので、私は必然的に手前の椅子に座った。
四人揃うのは一ヶ月ぶりか。
楽しい話題を探したが、川瀬の視線が気になってそれどころではない。
「…退屈そうだな、」
「帰りたいけど、外は嵐で車が出せないって言うし。
 人生で2番目に辛い時間を過ごしてるよ」
「不機嫌なわけはそれか……」
それにこうも雨男が揃っていたんじゃ、嵐になるのも仕方ない。
「しかし、来てくれて嬉しいぞ!」
「無理矢理連れてこられたんだよ」
花澤の方を見やる川瀬。
早速書に目を投じていた花澤だが、その視線に気がつくと
片手間のように呟いた。
「友の晴れ舞台だからな」
「晴れ舞台の舞台袖でしょ、まだ」
「そうだな。燕尾服に着替える必要がある」
「…、」
口ごもる川瀬。
私が殴ればそれ以上の言葉で殴ってくるくせに、
花澤の前ではすぐに拳を散らす。
私は花澤の威を借りたつもりになって、そんな川瀬をニヤニヤと見つめた。
「あれ、玉森じゃないか」
「あぁ。久しぶり水上」
彼の鈍感さにはもはや慣れたというか、もはやしょうがないというか。
とかく私は彼の変わらぬ微笑みに安堵する。
すると花澤が机を叩いて、水上に珈琲を持ってきたことを知らせる。
水上はありがとうと言うと、熱そうに珈琲を口にした。
「水滸伝…読み切ったぞ」
「おお、早いな」
「……、」
花澤が珍しく赤面している。
にやける口元を押さえ、目を伏せて、
なんだか恥ずかしそうにしているのである。
私と川瀬は、そんな花澤を呆然と見つめてしまった。
「どうだった?」
「…良かった」
「だろう。花澤は絶対武侠物が好きだと思ったよ」
「……、」
「次は金瓶梅を読むといい」
水上は立ち上がると、花澤のために本棚へ向かう。
そうして古く分厚い書を持ってくると、花澤の前に置いた。
すると花澤は一瞬目を輝かせ、
けれどすぐにいつもの視線で読み始める。
…花澤は無邪気になることを恥じているようだが、
彼の気持ちは私たちに筒抜けであった。
水上はまた私の方を見て、小首をかしげてさらりと髪を揺らす。
「ここの書庫はすごいな、世界中の本が集まっている」
「お前が読んでくれたらこの書庫も報われる」
「一日中居たいよ」
「いいんじゃない?君も玉森くんみたいにあいつに寄生してやりなよ」
「だから寄生ってお前な!」
「その通りでしょ?」
雨であることと、この場が氷川邸であることと。
様々な要因が混ざり合って川瀬の機嫌が不へと落ちている。
もはや相手にするまいと思って居ると、
彼はずいと詰め寄るように、ソファから身を起こした。
「…俺はまだ君の考えが分からない」
「……、」
「いくらあいつがいないと暮らしていけないからって、
 目玉を移植するなんて尋常じゃないよ」
「そうだ。目の調子はどうなんだ?」
「水上は黙ってろ。
 なぁ玉森くん、いい加減目を覚ましてくれよ」
「……」
「あいつを騙してこの家を乗っ取るはずじゃなかったの?」
「そうなのか、玉森」
花澤までもが私に目を向ける。
…川瀬は本当に余計な一言が多すぎる。
以前なら適当に川瀬の望む答えをやっていたが、
今日の私は少し気が大きくなっていた。
「確かにそのつもりだった。だが今はみじんもない」
「!」
「私はこれから、博士の右目になろうと思う」
「はぁ?」
「嬉しいぞ、玉森。俺はお前と博士の親友でいられることが誇らしい」
「ありがとう花澤」
「いや、いや何言ってるの。博士が君たちに何してくれたの」
「お前にはまだわからぬことだ。そしていつかわかる時がくる」
「俺も氷川さんと仲良くなりたいな」
「……!?」
水上の賛同に、ついには絶句する川瀬。
誰も川瀬を責めるわけでなく。ここにいない博士に思いを馳せている。
川瀬にとって今夜は地獄の夜かも知れないが、
私も早く川瀬がこの域に達することを望んでいた。
「ありえない……。気持ち悪い、ほんと気持ち悪い……」
「まぁまぁ川瀬。水滸伝でも読んで落ち着け、」
「水上も大概愚鈍だよねぇ!
 それにどう落ち着けって言うんだよ!中国四大奇書とか言われてるそいつでさぁ!」
川瀬の怒りが堰を切りそうになったところ、
伝声管から流れる音楽が切り替わる。
心地の良いワルツの音色に、誰もが声を鎮めた。
どうやらダンスホールで、舞踏会が始まったようだった。
すると、さっきまで重く腰を下ろしていた男たちがぞろぞろと書庫を出て行く。
ついには4人だけが残されて、私たちは互いの顔を見やった。
「舞踏会目当てか。さもしいことだ」
「へぇ意外だね。てっきり花澤もそのために来たのかと思ったけど」
「くだらん」
気が散ったのか本を閉じる花澤。
煙管に煙草を押し込んで、一服し始めた。
「玉森くんはいかないの?」
「私は……。水上は?」
「興味はあるけど、書が止まらない」
「だろうな」
そして川瀬も潔癖ゆえ人に触れられない。
結局私たち4人の腰が浮くことはなかった。
そもそもダンスとは一体何だろう。
芥川龍之介の短編に「舞踏会」というものがあり、
女は水色の、薔薇色の、目にも鮮やかな舞踏服を身に纏って踊るという。
少女の目から鹿鳴館の夜を書いた、美しい作品だ。
普段の私ならば文士的欲求から、その光景を見に行っていただろう。

だが今、私の胸には妙な暗雲が垂れ込めていた。

…博士はどうしているのだろう。
あの人は調子に乗りやすいから、享楽に耽っているのではないだろうか。
今夜の主役である彼が、阿呆を見せつけられて踊り出さないわけがない。

いやいや、何を考えているのだ、私は。
彼と私はただの親友なのであって、
彼が誰と何をしようが引き留める権利などないのである。
…つい先日も、博士がこっそり運転手を雇っていたことを責めてしまった。
結果、博士が目の異常を訴えてくれるきっかけとなったが、
私は私の醜さを恥じた。
それをまた今、思い出すことになろうとは。

「なぁ玉森。
 いつか改めて氷川さんを紹介してくれないかな」
「な、なんで?」
「本を読ませて貰った礼が言いたいんだ」
「なら私が……っ、」
……伝えておく。
そう続けようとした瞬間、身体の中に電流が走る。
「!!!」
思わず身を縮こまらせて、怯み。
けれどそれは痛みに寄るところではない。
「…?」
「ななな、なんでもない…」
…博士への心ばせを、全撤回したくなる。
一度のみならず、三度四度轟く稲妻に、私は冷や汗を垂らした。
「体調悪いの?」
「い、いや…。いや!!そうかも知れん……!」
「休んできなよ、一人で行ける?」
「いける、一人で…!」
「……、」
川瀬に懐疑的な目を向けられてしまう。
私はそんな彼ににっこりと笑いかけ、書庫を後にした。


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私が飛び込んだのは、博士のコレクション部屋だった。
異国の土産物で部屋は埋まり、現地で交換したという絨毯がカーテンのように吊されている。
まるで見世物小屋の裏方だ。
私は携帯ランプを片手に、とある物を血眼で探していた。
すると、背後で扉の開く音がする。
いそいそとやってきた博士は、私の目を見ず入り口のランプに灯りを入れた。
「た、玉森くん。こんばんは……」
博士のそばまで詰め寄って、その胸ぐらに掴みかかる。
私の形相に怯えつつも、妙に嬉しそうな顔をするのが腹立たしい。
「玉森くんが見当たらなくて、その、これで呼び出そうと…」
「だからってこんな時に!!!」
…私の身体の中に今、博士の作った小さな張り形が入っている。
スイッチ一つで張り形の歯車を遠隔操作できるスグレモノだ。
イザナギを応用して作った、とんでもなく馬鹿げた発明品である。
…私は一ヶ月前から、博士の懇願により着用を義務づけられている。
まさかとは思ったが。
まさかと嫌な予感は感じていたが。
「何考えてるんですか…!!!」
「実は僕もスイッチをなくしてしまって、困ってるんです……」
「嘘つけ!!」
「予備のスイッチも見つかりませんか?」
「……ッ、」
この胸を揺さぶり、死ぬまでその頬を叩きたくなる。
…けれどそんな「私」を必死に押さえ、
ついには彼の胸にもたれてしまった。
「…今も、少し……動いてます」
「……、」
小指ほどまで縮小された博士のそれが、私の中で揺れている。
「もう…、許してください」
博士に嗜虐性がないのはわかっている。
だから私が下手に出れば、彼は申し訳なくなって早々にスイッチのありかを教えてくれるだろうと、思った。
「!」
突然私の背を抱いて、掴んだ右手を高く掲げる博士。
扉越しに流れるワルツに合わせ、ゆっくりとステップを踏み始めた。
…客人の接待に疲れ、壊れてしまったのか。
私はこいつを殺したいという気持ちを必死に押さえ、
仕方なく、この揺らぎに身を任せることにした。
「僕が身体を寄せたら、君は後ろに引いてください」
「……、」
「お上手です。そうして僕が引き寄せたら、どうぞこちらへ」
一層強く肩を抱かれる。
この狭い室内で自由に動けるわけがないのに、
何が楽しいというのだろう。
私などに構わず、広いダンスホールで踊れば良い物を……。
「今は舞踏会の最中でしょう…!」
「そうです。だからここには、誰も来ません」
「!、!」
すると再び、私の中で張り形が震え始める。
覚束ない足元を、博士は無理矢理にステップへと変える。
なにより押しつけられる腰元が膨らんでいることに、私は再び憤った。
「…いい加減にしてください…!」
「何のことでしょう、」
「張り形のことです……!!!」
「ですから僕も、スイッチをなくして困っているんですよ」
「……っ、」
「お辛いなら、僕がここで抜いて差し上げましょう」
…博士はこんな男ではなかったはずだ。
だのに彼は了承なく私を抱きかかえると、近くの椅子に座らせる。
「ズボンを下ろして、後ろを向いてください」
「はっ、博士……、」
「ひどいことはしませんよ
 夜まで抜かないという約束…守ってくれたお礼です」
罰も願いも報酬も、全部やることは同じではないか。
だのに私は従順に、彼の言葉に従っていた。
椅子の上に膝立ちになり、背もたれに手を掛ける。
ゆっくりとズボンと下着を下ろし、博士の前に痴態を晒した。
「お綺麗です……」
「早く抜いてください……、」
秘部から垂れる赤い糸に、指を絡める博士。
そして振動に強弱を付けながら、少しずつ引き出していく。
私を抱くようにして身体を寄せると、シャツ越しに胸の先を優しくこすった。
…シャツの上からでもわかるほど立たせると、
指先でゆっくりと捏ねる。
「余計なことっ……!」
「でも君の乳首、こんなにふっくら…」
「抜けって言ってるんです…っ!!し、下も押し戻すな!」
「君が吸い上げているんですよ、…あぁほら、また……」
そう言って私の中に指をうずめる博士。
大きく繊細な指が、震える張り形の背を押している。
私の弱い場所にそれを押し当てると、
彼はあろう事か振動を最大まで上げた。
「ッ……ば、か!!!」
逃れようとする私の身体をひしと抱きながら、乳頭を強く絞る。
「どうぞなじってください……っ、」
「っ……、…!?」
絶頂を向かえそうになった瞬間、紐を素早く引っ張られる。
異物が飛び出す感覚は、何度体感しても慣れるものではない。
自尊心なんてのはそうして何度も崩されてきたのに、
また積み上げていってしまう私もどうかと思う。
「…見ないでください…!」
「なぜですか…?」
…私の熱が移り、暖まっているそれ。
博士は手の平に包んでほおずりすると、手袋ごと胸ポケットの中にしまった。
足元には案の定、張り形を操作するスイッチが落ちている。
博士は私の目に見えぬよう物陰へと押し込んだが、
私も怒る気力はなかった。
「…今日はあなたにとって……大事な日のはずです。
 こんなこと、間違ってると思いませんか」
「今夜は君を抱こうと決めていた日なんです。
 特別なことではありません」
詭弁なんて、いい大人の発言ではない。
何か噛みついてやろうと思って居れば、
博士は私の中に指を差し入れる。
「君も、ずっと僕が欲しかったんですね…、」
「…!」
「あぁ、愛しいです。なんて素直で…なんて、あぁ……」
「まっ、待て博士…!」
そして指が引き抜かれたかと思うと、
代わりに彼の亀頭を押しつけられる。
…今日の彼は少し様子が違う。
心の準備を待たずして、半ば無理矢理に挿入された。
「っぁ、……!」
「…、」
長く、それでいて硬い彼の性器が、私の奥を刺激する。
張り形でも指でも届かないそこへ、
彼はやすやすと走り露を擦り込んだ。
「さっきより君の中…、熱くなって……!こんなに、僕のことを…!」
「うるさいッ……!」
ゆっくりと、波打つように腰を動かされる。
ワルツに合わせたその動きが気持ち悪くて、
けれどその羞恥心まで含めて気持ち良くて。
私は唾液を拭いながら、必死に声を押し殺した。
「わかりますかっ…今、君の大好きなところ……、ごりごりしていますよ…、」
「…い…っ、いちいち…!」
「でも報告しないと……っ、
 玉森くん、おぉ、怒ってしまうから……!!」
「……っ!!」
勝手にいくのが困る、と以前言っただけである。
それを怒ラレタとは心外だ。
「許して、ください……っ」
「っ!…!……!」
音楽の旋律から外れ、律動を早めていく彼。
髪も汗も乱れ。繕っていた美意識が、荒く砕かれていく。
「博士っ……、もう…!」
「あぁっ…、いきそう、なんですね…!」
「……っ!」
「どうぞっ僕の手に……お出しください……!!」
繊細な手つきで性器に触れられる。
その瞬間、我慢もならずに射精してしまった。
二回に分けて、彼の手の平を汚す。
…倦怠感と羞恥心に耐えきれず、私はそのまま椅子に倒れ込んだ。
博士に至ってはとっくに出していたのか、
私の中から、彼の精子が大量に溢れた。
…かと思えば、彼の性器は未だに勃ち上がっている。
見てしまったからには、放っておくわけにもいかない。
私がいつものように口でしようとしたところ、
意外にも博士は身を引いた。
「たた玉森くん……」
「なんですか…?」
「まだ収まりそうもなくて……」
これで満足できないのか。
私もまだ、身体が熱に浮かされている。
言葉の代わりに足でも開こうかと思った時、
博士はなにやら暗がりからよからぬ物を取り出した。
「実はこの前…また新しい張り形を作ったんです」
「…!?」
「今夜は君に試して貰いたくて…」
私の目の前に、それをずいと寄せられる。
……至って普通の張り形だ。
博士の性器を象ったそれを至って普通などと表現すること自体狂っているのだが、
正気でいられるはずがない。
うんざりした顔を見せた瞬間、突然ウネウネと動き始める。
私の驚く顔を見て、博士は高揚したように笑った。
「蛇腹構造になっているんです…!
 使用した感想をお聞かせください」
「聞いてどうするんですか…」
「改良に改良を重ねます!」
そう言ってもう一段階、うねりを強める博士。
張り形は水草のように、たおやかに揺れる。
私が頷かないことに、一抹の不安を感じている様子の彼。
博士の寂しそうな顔を見て、私はつい心折れそうになった。
「絶対に嫌です」
「えぇ…」
「はい」
「どうしても?」
「はい」
問答を繰り返す度、一段一段速度が上がっていく。
やりとりが十回を超えた頃だろうか。
とろとろと炎の芯のように揺れていたそれが、
爆発した。
小さな爆風と火花を持ってして、
その場に儚く散り落ちる。
きょとんとしていた博士だが、炭に汚れた頬を拭いながら笑声をあげた。
「あ、あれ!おかしいな、あれれ!」
「……」
「そう言えば上限速度を設定していませんでした、」
「……」
真っ直ぐに博士を見上げる。
今にも逃げだしそうな彼のネクタイを掴むと、
顔の近くまで引き寄せた。
「あはは……」
「……」
私は今まで、博士の幸せを壊さぬように生きてきた。
…この世界だけは。
博士を自由に、好き勝手に、生かしたいと思って居たのに。
だのに気がつけば私は、ネクタイでその首を締め上げていた。
「うぅっ!」
「私の中で爆発していたら、どうしていたんですか」
「うう、う……」
「答えろ、」
「僕が責任をとって…!一生君を、養います!」
「そんなのは大前提でしょうが!!」
「た、玉森くん…!」
「嬉しそうにするな!!」
その顔が気に食わず、私は彼の急所を片手で握る。
「あっぁッ!!」
情けない声を上げて、彼はその場に膝を落とした。
……もうダメた。
私は私の暴走を、止めることが出来ない。
もし次に彼が微笑んでいたら、私はきっとまた…彼に暴言を吐いてしまう。
「!?」
すると意外にも。
今までもだえていたくせに、やけにすっと立ち上がる博士。
私を見つめる瞳は、なぜかこの上なく澄んでいた。
「それで良いんです、玉森くん」
「なっ、」
「それでこその玉森くんですよ」
何を言ってるんだ。
「実は僕、この一ヶ月間君を怒らせるようわざと仕掛けていたんです」
「……」
「小型の張り形を毎日つけるようお願いしたのもそうです」
「……」
「ね、他にも色々思い当たる節はあるでしょう」
「嘘を吐け」
「嘘なんかじゃありませんよ。全ては君に君らしく過ごして欲しいためで…」
博士の胸を蹴れば、よろめいた後に尻餅をつく彼。
私は彼に馬乗りになると、
やるせない気持ちでその胸ぐらを掴んだ。
「怒っている私が、本当の姿だと良いたいんですか!」
「そういうことでは…!」
「…わ、私だって…!!」
私の中には、もう一人の私がいる。
博士をぞんざいにしてしまうハイドと、その反対のジキルが。
ハイドこそ、これまでこの世界で生きてきた「私」に他ならない。
私が何度そいつを殺そうとしても、
博士自身によって呼び覚まされてしまう。
「優しくありたいんです…!」
「!」
「……、」
この気持ちが伝わったかは分からない。
ただ博士は上体を起こして、私に顔を近づけた。
「本当は……君に嫌われようとしていたんです」
「…!」
「一ヶ月前、視界が悪くなり初めて。
 けど君に打ち明けたら、優しい君は僕に身を削ってしまうだろうと思いました」
「…、」
「後悔していませんか?」
「…博士、」
「こんな僕と、結ばれてしまったことを…」
博士は私の目を見て、泣きそうな声で問いかけてきた。
その潤んだ瞳が見ていられなくて、私は口づけで左目を閉じさせる。
「どうしたら…、あなたを安心させられますか」
こんなにあなたのそばにいて。
この目も身体も捧げてきたというのに。
まだ足りないというのなら、私はなんだって……。
「ダンスホールで、僕と一緒に踊ってください」
「!」
「君を僕の愛する人として、紹介したいのです」
「紹介って…」
「君と僕の関係を。みんなにも」
「それじゃああなたの名誉が……!!」
「……、」
博士は微笑んだまま、何も言わなかった。
…やはり何度見返しても、私と博士の関係は歪だと思う。
様々な物差しを持ってしても、
私たちの関係は、きっと誰にも認めて貰えるものではない。
だが今夜は…うぬぼれてしまっても良いだろうか。
博士の暗部でありながら、
彼に光を与えられたのだと。
彼の優しい気持ちを、私のものにしてしまっても。

私は彼にもたれ、その胸に頬をすり寄せた。
「花澤と水上は、びっくりするでしょうね」
「えぇ」
「川瀬がとやかく言ってくるかも知れません」
「そんな気がします」
「私を、守ってくれますか」
「はい」

…私は私が嫌いだ。だから私を愛する者など信用できない。
けれど。

「博士、愛しています」
博士の一途な想いに、振り向かされてしまった。


 

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