博士×玉森
チョット東北ヘ、と出て行ったのは一ヶ月前。
一週間デ戻リマス、とは一ヶ月前の口約束。
そして今日、彼の荷物だけが先に帰って来た。
彼の愛用品である革のトランク。
遠出の際は必ず彼が右手に握る。
そいつをベッドの端に投げ、私たちはしばし無言で見つめ合った。
…今頃博士はどうしているだろう。
想像に難くない、呑気に列車に揺られている事だろう。
よもや眠っているかもしれない。
ましてや、夢を見ているかもしれない。
私と不通であった東北の一ヶ月間を思い馳せ、さぞ楽しい夢路を辿っているのだろうな。
…ムカつく……。
いかん、私の悪口は際限ない。
ここらで気持ちを切り替えて、
彼が帰る前にトランクの中身を片付けなければ。
だがしかし、いやしかし。
そうするのは決して彼のためではない。
アリガトウゴザイマスなどと言おう物ならぶん殴ってやる。
私が欲しい言葉はただ一つ、ゴメンナサイだ。
こんなにもいじらしい私という男を手放しかけたことを、彼に後悔させてやりたいのだ。
怒り任せに鍵を外せば、
予想だにしない光景が飛び込んで来た。
「!」
敷き詰められた真白いシャツ……に、染みついた甘い匂い。
後ずさりしようも鼻に残る、甘い匂い。
だだっ広い部屋の中、私は一人尻餅をついた。
香。
香だ。
博士のくせに……。
なお尻餅をついたままの私。
目線を同じくしてトランクも口を開けたまま。
窓は九月の陽気で輝いている。
…いかんいかん。
私はただちに膝を正し、もう一度トランクに鼻を近づける。
近づけて、鼻の小脇を二度三度広げる。
これは博士が醸す体臭ではない。
シャツを一枚崩さぬように持ち上げて、己が顔面に押し当てる。
甘いベールの向こうにいつもの彼の匂いがある。
…いかんいかん、いかん。
安心している場合ではない。
私は推理するためこのような体勢を取っているのだ。
この香の意味。
一般的に疑うべきは女の影、だろうが、博士に限ってはありえないと断言できる。
気移りの恐れは皆無だ。
ならば一ヶ月戻らなかった詫び入れ、のつもり、だろうか。
実のところこの匂い、大変私の好みである。
玉森クンノタメ、華々シイ玉森クンヲ想ッテ香ヲ……。
というのなら、先に荷物を送った理由がよくわかる。
香が空に飛ぶ前に届けようというのだろう。
私物に移すとはニクイ演出だ。
……が。
博士が本当に許しを請うのなら、回りくどいことはせず現金を渡すはず。
ならばこの香は一体……。
「!!」
匂いが移ろう。
気づかなかった、これは白檀の香りではあるまいか。
視界が突然渦巻いて、煙と消える祖母の背を見た、気がした。
「……!」
人をおくる匂い。
遠い昔が、昨日のように蘇る。
誰かが屋敷のチャイムを鳴らす。
私の博士ならば、私の名を呼びながら戸を開くはず。
さすれば私は、ベッドで眠ったふりをしてやる……はずだったのに。
私はいかん、いかんいかんと口走りながら一階へと滑り降りた。
「博士!!!」
「玉森くん…!」
これまた、予想だにしない光景が飛び込んだ。
白く揺らめく日差しの中、
赤く、甘い匂いいっぱいを胸に抱えた博士が立っていたのだ。
その胸元からごろんと一つこぼれ落ちる。
「り、林檎?」
「はぁあ……っ」
片目を潤ませ、私に寄る博士。
私が期待していた謝罪とも違う、
私が恐れていた災難とも違う、
私に会えた喜びに、彼は涙までこぼした。
「あぁぁ玉森くん!君もこんなに瞳を潤ませて……!!」
「いえこれは寝起きによるものです」
「やっと、やっと…帰っ…!」
倒れ込む博士の身体をひらりとかわす。
すると門前に、大きな木箱が積まれていた。
こうしている間にも次々と運び込まれている。
……甘い匂い。
胸に抱えるそれと、同じ匂いだ。
「まさか、あの箱全部に林檎が?」
博士は申し訳なさそうにうつむいた。
「改良した防虫剤を散布したところ、落果が早まりご覧の通り……。
傷があるものは全て買い取らせて頂きました」
「……」
博士は一体何を生業としていたか。
「ジャムに加工して販売する予定です」
「素敵な発想ですね……」
悲しかろうと無駄なく金脈を掘り当てる洞察力。
私が唖然としていれば、何と勘違いしたのか彼はまた腰を低くした。
そしてまたぼろぼろと林檎が崩れる。
拾い上げて胸に貯めて行くうちに、
あの甘い匂いが私にも染みつく。
私にも、博士にも。
木箱を抱える従者たちにも。
皆に等しく、蜜の香りが漂っていた。
「た、玉森くんにも食べて頂きたくて。
傷のないものも譲ってもらいました」
「……」
「傷つかないよう大事に運んできたつもりが……あぁ、」
「ずっと抱えていたんですか?」
「……はい」
「列車の中も?」
「はい、」
「車の中でも?」
「もちろんです。でも……」
最後の最後で気が抜けた、というわけか。
籠か、それこそトランクにでも詰めればいいものを。
わざわざ両手に抱えるなんて、
どれだけ己の手を優しい物と思っているのか。
こんな男だから、落ちた林檎を一つ一つ拾ったのではなかろうか。
私の推理、今度こそ間違いないだろう。
「博士。私に言うことありませんか?」
「ごめんなさ……」
「タ!で始まる言葉です!」
「玉森くん……」
「そりゃさっきから聞いてます」
「た……」
「おかえりなさい」
博士の頬が赤く、柔らかく。
「た、ただいま戻りました……っ」
林檎の香りと、
ふいに香った白檀。
どこかで祖母が笑った気がした。