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「夢色古書堂」

アッと思ったその時に、ペン先はもう駄目になっていた。
ろくに見もせずインク壺に差し入れたのが間違いだった。
硝子の底は黒く乾き、傾き溜めても掬えそうにない。
私はころんと筆を投げ出して、凝り固まった体を真上に伸ばした。
机上を引きで眺めつつ、書き散らかした原稿の表面を目でなぞる。
まだ原稿用紙は五枚ほど。承にも至らぬ起の起である。
それでもこの物語が大作であることは、十二分に伝えられる出来であった。
続きは頭の中にある。すぐに取りかかりたいものの、インクがなければ先へ進めない。
仕方ないと諦めて、私は机に頬杖をついた。
…机、机と言っているが。ここは古書店であり。机とはレジ台であり。私はここの店員である。
しかしこの雨のせいで客足もなく、退屈していたところであった。
外は三日目の雨が降っている。
私は務めを見いだせずに、頬杖を逆に傾けた。

「玉森くん。おはようございます」
「おはようございます、店主」

私の後ろで寝ていた店主が、のそのそと寝返りを打つ。
ついでに時計を見上げれば、時刻は昼の二時を過ぎていた。
オハヨウゴザイマス、などとは。
「すっかり寝すぎてしまったよ、」
「そうですね…。こんにちは、が正しかったでしょうか」
「ではこんにちは、」
「こんにちは、店主」
店主は不思議な男である。
本屋の店主が勤勉であるべきところ、要の店主がこの様子である。
きまり悪そうに頭を掻いているが、店主が布団を畳む様子はない。
店番を私に任せたことで暇ができたのか。
それとも私が来る以前から、この呑気な方針であったのか。
どうして生計を立てているかも、店主の不思議の一つである。
私は挨拶だけすると店主に背を向けて、ちりちりと揺れる電灯を眺めていた。
「こう寒い日は、お客さんも来ないんだ。退屈だったでしょう」
「いえ…」
「億劫な時もあるけれど。
 それでも誰かのために、店は開けておきたいんだ」
「あぁ、お気になさらず。退屈をしのぐ方法はいくらでもあるので」
「そうかい」
「……でも、いいんですか、」
雨が降れば神保町の本屋はたいてい店を閉める。
梅鉢堂はそんな中、雨天の時だけ店を開ける不思議な店であった。
しかし閑古鳥が鳴いているようでは、店主の生活が危ぶまれる。
「この商売で儲けようなんて気はないんだ。
 玉森くんものんびりお過ごしなさい」
「のんびり、ですか」
時計の針ものんびりと、チクタク数字を指し示す。
「お客さんが居ないときは、好きなことをするといい。
 たとえば筆をとって、紙に向かう、とかね」
「……、」
店主はやはり、不思議な人だ。
素性も分からぬ二浪の男を住まわせて。
客が来ない間は好きに過ごせという。
しかし彼が善人でいるのにもわけがある。
それは私がただの浪人ではない。苦のつく浪人、苦労人だと勘違いしているからである。
善人ほど損をする、というのは誰の言葉であったか。
もしかしたらそんな言葉、誰の物でもなかったかも知れない。
けれども私は、地蔵に傘を貸して風邪をひいた友人・Mを知っている。
確かに世界は、善人ほど損をする仕組みなのである。
「では、お言葉に甘えて。今後そうさせて頂きます」
「うん、」
店主が期待するのは学問や論文の執筆だと分かっている。
けれど私は原稿の執筆だとすり替えて、彼の言葉に出来るだけ真面目に大きく頷いた。
ほらもうすでに、彼は私に裏切られているのである。
「ときに玉森くん。君は物語を書いていたりしないかい?」
「え…?」
「夕べ寝付けなくてね。気晴らしに本を読もうと思ったら、
 一枚原稿用紙を拾ったんだ」
ひらりと紙が揺れる音。
私は胸を斬られた思いがした。
「この原稿、君のものじゃないかと思って」
「!?」
「今手元にあるから、読み上げてもいいかな」
「ままっ、待ってください!!!…多分それ……、私のではありません」
「あれ、」
意外そうに。加えて残念そうに店主はそう言った。
「そうかい。なかなか面白かったのになぁ」
「にゃ、にゃは……」
「もし君の物あれば、詳しい内容を教えて貰いたかったところだ」
「にゃはは……」
「それでは次に晴れたとき、この原稿の写しを門前に貼り付けておいてくれるかな。
 持チ主ヲ探シテイマスと添えてね」
「!」
さらし首ではないか!
私は崩していた足を正すと、冷たい膝小僧を両手で揉んだ。
「えぇっと……あの。ごめんなさい。
 それ、私の物かもしれません」
「おや」
「原稿が、確かに一枚足りず…」
「そうかい。それじゃあ続きを聞けるね」
「……、」
嫌味か、それとも本当の好奇心なのか。
…いや、考えるまでもない。
私の空想趣味を知って良い顔をする人はそう多くはない。
私は店主の言葉に身構えた。
「私の拾った原稿では、老人と鳩が会話している」
「あぁ……」
やはり。それはまごう事なく。私が昨日書き上げたの原稿であった。
「どうやら老人は鳩語がわかるようだけど」
「それは普通の鳩じゃないんです…」
「して、」
「…はと、……鳩人間なんです」
「鳩人間……」
なんと深刻そうな声で、私の言葉を繰り返す店主。
「鳩人間…、」
「ととととにかくそれ、返してくれませんかっ!」
「どうして鳩が人間に?」
「だからっ、あ、あのぉ……〜!」
「詳しく聞かせてもらえないかな」
「……!」
これは尋問である。
羞恥からまた嘘を吐けば、寝床と食費を提供してくれるこの資金源に…あ、いや。慈善家に。
怪しまれて追い出されかねない。
「……ごめんなさい…」
「何を謝ることがある?」
「営業中に、勝手な事をして……」
「営業中に書いていたのかい」
「えぇっと……」
「ほどほどにね」
そう叱る声さえ、なんだか優しい。
それが何より私の心を傷つけた。
「お恥ずかしい、かぎりです」
「……、」
「私は浪人生ですし…。浪人生の分際でそんな、物語だなんて。
 …ね、おかしいでしょう。学もない癖に学のある話が書けますか」
「私も昔、物語を書いていたんだ」
店主の声音は、変わらず優しかった。
「それだけで。君と私が近しい人間だと、分かるだろう」
「…!」
「ね、」
私と店主は悪魔と天使のような。餓鬼と仏のような。それほどまでに、真逆の存在であるのに。
恐れ多くも私は彼に、親近感というやつを覚えてしまった。
「これは、その。川沿いに住む老人と鳩の物語なんです…」
「ほう、」
「老人は傷ついた鳩を看病して、巣に帰します。
 すると翌日、お礼をせんと鳩がやってきて…」
「……」
思わず店主を伺う。彼は黙って、続きを催促しているようだった。
「よ、翌日やってきた鳩の姿と言ったら実に奇っ怪…!人の上半身に鳩の下半身を合わせ持つ、
 鳩人間がやってきたのです……!」
「だから鳩は人の言葉を話していたのか」
手元の紙を揺らす店主。
続きなど書かれていないと分かっているのに、裏面までのぞき込んでいる様子だ。
「それで玉森くん。続きはどうなってしまうんだい?」
「続き……?」
「最後まで聞かせてくれないのかい、」
今度は寂しそうにそう言う店主。
彼の言葉は催促に聞こえ、頷きは合いの手に聞こえてくる。
…私はいつの間にかぽつぽつと、原稿の続きを語り出していた。
「恩返しがしたいと言うその鳩人間を、普通の人なら扱いに困りましょう。
 ですがこの老人、かつては見世物小屋の座長だったのです……」
「ほう」
「一度は旗を降ろしたものの、彼は稼ぎ方を知っています。
 老人は鳩人間におハネという名前を与え、迎春の浅草へ繰り出すのです…!」
「ほうほうほう」



「っで!そんなこんながありまして、この物語は終わるのです!!」
「鳩人間なんてのは幻だったということかい」
「そう!!」
「老人は鳩を助けたその夜には死んでいた、と」
「はい!ですが仏は老人の行いを見ていました。そこで仏は極楽鳥を遣わせて、
 せめて最後に幸せな夢を見させるのでした……!」
区切りの良いところで、鳩時計がぽっぽと鳴る。
時計を見やればもう六時。閉店の時刻である。
私ははっと我に返り、いつの間にか立ち上がっていた身体を折りたたんだ。
…いやはや、恥ずべき性分を見せてしまった。
私は自分を語り出すと、なかなか現実に帰って来られなくなるのである。
しかも何だ、息が荒れている。
私は店主に背を向けて、身を縮めた。
「す、すみません。私ばかり、こんなに……」
「いえ。楽しい時間だったよ」
「……、」
そう言われて、友人・Mの顔が浮かんだ。
「……私の物語を、喜んでくれる奴がおりまして」
「物語はその方のために?」
「!タメニというわけじゃあないんですが!……。…まぁ、そんなところです」
二十年を生きてて、これまで多くの物語を作ってきた。
数え切れないほどだが、一つ一つの物語を覚えている。
そうして同時に思い出されるのは、Mという男の横顔である。
奴はどんな物語であろうと。どんな結末であろうと。
ニコニコニコと原稿を読み、話を聞き、そしてちょっと変わった感想をくれるのである。
店主は少し、Mと似ている。
言葉と感情に偽りがないところ。こんな私に興味を持つところ。
要するに変わり者と言うことだ。
「店主は一体どんな物語を書いていたんですか?」
「私かい?…さぁ。随分、昔の事だからなぁ」
「私にも聞かせてください、」
「もう忘れてしまったよ」
「それはずるい、」
私も店主に興味を持ってしまった。
「この古書店にある本は、全て読んだんですよね?
 見聞あるあなたの物語、是非とも聞いてみたいのです!」
「書けなくなってしまったんだよ」
「?」
どうして、また。
「私も昔は君のように、幻想怪奇を愛していた。
 けれどある時知ってしまったんだ。
 現実には幻想も。怪奇も。不思議な事など、ありやしないと」
「……?」
「決して没理想的な意味ではなくてね。
 書きたくても、書けないんだ」
「少しも、ですか?」
「あぁ」
「じゃあ何か、本物の不思議があれば。また書けるようになるかも知れないんですね?」
真面目な私の問いかけに、店主は楽しそうに「そうだね」と答えた。
「不思議なことならここにあります、」
「おや?」
私は浅く腰を上げると、背後の店主に正座を向ける。
そうしてぐっと、目の前の障子に顔を近づけた。
「私はまだ、あなたの顔を見ていません」
「……」
私が初めて梅鉢堂にやってきた時から。
店主はこの障子の向こうにいて。私は店主の気配を頼りに、今の今まで会話しているのである。
「不思議なことではないですか」
「それも、そうだね」
「不思議です。あなたもまた、私の顔を知りません」
私たちはまだ、見ず知らずの赤の他人だ。
私は顔も知らない男に雇われ、彼もまた顔を知らない男を雇っているのである。
この状況を誰に説明し、誰に理解できようか。
不思議と言わずしてなんというのだろう。
「私は知りたいです、」
障子にそっと手をかける。
すると私と同じ動作で。
鏡に自分が映るように。
障子の向こうに、手の影が見えた。
開けんとする私の手を、その手は静かにいなしている。
「それじゃあ不思議のままにしておこうか」
「!」
「君のために」
すっと、影が消える。
私は障子を開けることもできたのに、前のめりになった姿勢をおずおずと正した。
それから店主は咳をして。布団の中にまた、潜ってしまったようだった。




 

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