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​演 名前

​演 名前

​主人公大崎

新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、

初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだ
が、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
 

今回、依頼主・台場静馬と容姿が

似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。

 

​主人公大崎

新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、

初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだ
が、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
 

今回、依頼主・台場静馬と容姿が

似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。

 

波打ち際に黒い塊が横たわっていた。
図体は太く長く、そのわりに尾は小さい。
まるで夜の海が置き忘れたかのような、現実味のなさだった。

——浜には近づかないでください。危険です。

駆り出された警察が、砂浜への通行を塞いでいる。
理由は聞くまでもない。そこに何があるかは一目瞭然だった。

日曜日。
腰越海岸にクジラが打ち上がった。

浜沿いの歩道に人が列を成し、
無言で海を見つめている。
じりじりと照りつける太陽の下で、クジラの腹はゆっくりと膨らみを増していく。
こんなにも静かな夏の海を、自分は初めて見た。

「シロナガスクジラだな」

ふいに真横から声がする。
自分と汐留さんの間にはいつの間にか老人が立っていた。

「魚師匠!」
「魚師匠……?」
「魚屋のおじさんです。いつも夕飯を見繕ってくれる人」
「お世話になっています」
「見ろ」
師匠は短く言って、クジラの腹を指差した。
「オスの子クジラだ」
「オスって、どうしてわかるんですか?」
「チ●コが飛び出している」
げんなりする。
「体の中が腐敗して、ガスが溜まる。すると腹圧でチ●コが外へ押し出されるのだ」
「腐ってるなら、もう食べられない?」
「食えん。もったいないがな……」
そう言いながら師匠は去った。
その背は小さく、寂しげに揺れていた。

汐留さんは黒い塊——シロナガスクジラの子供を見つめ続けた。
「……親クジラは今頃、どうしてるかな」
「わかりません。ただ、探しているとは思います」

プール帰りの子供たち。買い物袋を分け合う老夫婦。
歩道を行き交う人は皆、横顔をクジラに吸い寄せられている。
脈絡のない顔触れが、一つの大きな葬式のように思えた。



風向きが変わる。
腐臭がはっきり届き、野次馬の何人かが散った。
汐留さんは目を逸らさなかった。
「どうして死んじゃったんでしょう」
「何か悪いものを食べたのか、岩に頭をぶつけたか」
「せっかちだなぁ。先週の俺かー?」
「だからでしょうか、他人事には思えなくて——」
自分たちはそれきり黙り、黙祷に加わった。







町にクジラが現れて、2日目。
月曜日だというのに休みを取ってしまった。
自分と汐留さんは麦わら帽子を被り、ラムネを片手に海を眺めた。
噂を聞きつけた物見客も加わり、歩道は昨日より賑やかだった。
近くの水族館と大学にも、クジラのことは伝わっている。
「爆発」を待ってからクジラを回収する計画なのだと、
通りすがりの師匠が教えてくれた。

——腹に充満したガスは、最終的にクジラを爆発させる。

さすがは漁師町の気質か、
皆は警戒心よりも祭り心を優先している。
屋台が出て、焼き蕎麦の匂いとクジラの匂いとが交互に流れる。
自分も腹が減ったり、息を止めたりと忙しなかった。


クジラはさらに膨らむ。皮膚に細かなひびが走る。
波から離れ、乾いたその体は、もう海のものではなくなっていた。


浜と海は規制が続き、今日も静かだ。
遠くにも近くにも、
子を探す親クジラの姿は見えない——







町にクジラが現れて、3日目の夜。
浜に人はおらず、
潮騒だけが夜を満たしている。

自分たちは浜へ降りた。
こんな夜中であるから、咎める者は誰もいない。
腐臭は強い夜風に削がれていた。
近づいて、目をこらして、初めて見えてくるものもあった。

——左の目玉は、鳥に食われて窪み
——体の左側は、擦れて白く剥げている

月明かりの下、クジラは昼間よりも大きく見えた。
それは膨張のせいであるが、
長い長い一呼吸のさなかにも思えた。

汐留さんはそっと、クジラの巨体に手を当てた。
師匠曰く研究者以外は触れてはいけないのだが、
この体験は、規則よりも大切な儀式に思えた。
そして彼はぽつりと呟いた。

「——この子、母親を探してたんだ」
「……」
「母親を探して。道に迷って。頭をぶつけて。
 ここに打ち上げられた。
 もしかしたら、母親は先に——」
目には見えない何かを、
言葉で説明出来ない何かを、
汐留さんは時折掬い取る。
自分はそれを夢うつつと思って聞いていた。
幻でもあり、真実でもあると。


汐留さんはクジラから手を引く。
聞き取りが終わった。
彼の中に何が去来したのかは、聞かないでおいた。

帰る途中、遠くで破裂音がした。
気のせいとも思えるほどの意外に小さな音だった。
自分たちは顔を見合わせ、急いで浜へと戻った。


クジラは人知れず、爆ぜたらしい。
膨張が溶け、ありのままの寝姿に戻っていた。

「おやすみなさーい。クジラ」

クジラは今、呼吸を終えた。
そしてまた、長い長い次の呼吸へ向かっていった。






 


町にクジラが現れて、4日目の夕。
仕事を終えて浜へ向かうと、
クジラの姿はもういなかった。

「昼に大学の人が来て、重機で運んでいきました」

歩道の喧噪も屋台の灯りも消え。
浜の砂も慣らされ。
海には再び人の声が戻っている。
自分たちは、クジラがいた砂の上に座った。

「クジラが来る前の日に、不思議なことがあったんです——」

 


『料理してたら、大崎さんに呼びかけられて。
振り返ったら全然知らない人が立ってた。
大崎さんは仕事中だし、家にいるはずないんだ。
だから俺「誰?」って聞いちゃった。
そしたらその人、ハッと驚いた顔をして。
なんにも言わずに出て行った。
廊下の角を曲がったら、もういなかった。スッと消えちゃったんだ』



「——悪いことしたかなぁ?」
「悪いこと?」
「『誰?』なんて。傷ついたかなぁ」
「すぐに警察へは行きましたか?」
「ううん。だって何もされてないし、盗られてもない」
「もし次同じ事があったら、話しかけもしないでください」
汐留さんは少し沈黙してから、ぽつりと言った。
「知らない人だって思ったけど……
 やっぱりあれ、大崎さんだよ」
「……どうしてそう思うんですか?」
「俺を呼ぶ声がいつもと同じだったから。
 羊皮紙に落としたインクが、ゆっくり時間をかけて沁みていくみたいな」
「また難しい例えですね」
「優しい響きってことー。イヒヒ」
汐留さんは自ら言って、自ら照れた。
「大崎さんは最近変な事ありました?」
「何も」
「良かった。こっちの大崎さんは迷子になってなくて」
「夢だとしても、不思議な出来事ですね」
「夢じゃないんですけどっ」
「寝ぼけていたんでしょう」
「現実でも夢でもなんでもいいけどさ。
 こっちの大崎さんは、俺だけに優しくしてくださいよー?
 別の俺を見かけても、流されないでくださいねー?」

——別の、汐留さん

あぁ。

そうだ。

夢だと思って。

いや。

夢だと思いたくて、忘れようとしたことがある。

その日、自分は見知らぬ家にいて。

いつもと違う様子の汐留さんに出会い。

彼から伸びる手を、自分は思わず拒絶してしまい、


涙させてしまったんだ——



「あ」



同時に、誰かの足跡を見つけた。
それは浜の外から来て、砂を踏み、波の中へと続いている。
町から、海へ。
迷いなく真っ直ぐ、まるで決まった帰路を行くように。


「きっと無事に帰れたでしょう。クジラも、もう一人の自分も」
去ったのではなく、戻っていったんだ。


汐留さんは重たい頭をこちらの肩にすり寄せ。
祈るように目を閉じた。
「……今日の夕飯、夏野菜冷やし素麺道雄君仕上げですよー」



夏は日常と異界が交差する。
今年の夏も始まったばかりだった。





「湘南十景 -浜-」1959.汐留Aルート

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