
演 名前
演 名前
主人公大崎
新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、
初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだが、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
今回、依頼主・台場静馬と容姿が
似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。
主人公大崎
新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、
初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだが、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
今回、依頼主・台場静馬と容姿が
似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。
「お客様、あなた最近よくお見えになるわね」
「嬉しいな。覚えててくれたんだ」
「いつも同じ席で同じ注文。
砂糖を入れる数まで覚えちゃった」
「珈琲が美味い店はどこにでもあるけど、
俺はこの大きい窓がお気に入りでね」
「そんなにいいものかしら。
歪みが酷くて、外の景色もまともに見えない」
「大正時代の古いガラスだ。
技術が未熟だった時代は、真っ直ぐに作れなかったんだよ」
「やっぱり安っぽい」
「それに割れやすい」
「嫌だ。店の窓、全部これ」
「大切に扱われてきた証拠だよ」
女は机に身を寄せた。
「本当は誰か目当てがいるんでしょう?」
「さぁどうだろう」
「いる顔してる」
「君、ここは純喫茶じゃなかった?」
「そう。でもお客次第で不純になるの」
女が笑顔の種類を変える。
男が首を傾げる角度を変える。
苛立つ会話だ。
彼らの笑みは本心じゃない。
嘘をつき慣れた人間の、ただ滑らかなだけのやりとりだった。
自分は奥まったソファ席に座っていた。
静馬さんは窓辺のテーブルにいて、
女給と冗談だけの会話をしている。
自分はずっと、彼方へ耳を向けていた。
彼方もまた、こちらの聞き耳に気づいているようだった。
それにしても、だ。
面談に適した都内の店を教えてほしい、と頼んだのは自分だが。
静馬さん本人、行きつけの店とは聞いていない。
しかも居合わせてくるなんて論外だ。
ようやく熱い珈琲に慣れてきた頃、
依頼人は現れた。
「遅れてごめんなさい、道に迷ってしまって。
大崎さんでいらっしゃいますか?」
「はい」
「電話では親身にありがとうございました」
「どうぞ、おかけになってください」
肩先まで影を作る、大きな帽子の女性だった。
「有明——いえ、
河合奈緒美と申します。
改めましてこの度は、
人探しをご依頼します」
彼女は小さな鞄から、いくつか品を取り出した。
書類。
鍵。
そして、一枚の写真。
写真の中の学生は、
緊張ゆえか、わずかに顎を上げている。
ほとんど目鼻の陰がなく、
顔だけが白く浮かび上がって見えた。
少年に求められる勇ましさはなく、
白百合のように心細い立ち姿だった。
「兄、有明勝太郎について、
お話しさせてください——」
『この写真は十年も前のもの。
兄は今、二七歳。
現在の写真はありません。
私たち兄妹は疎遠でしたが、
私はいつも、兄を想い続けておりました。
私は結婚式を控えています。
兄から返報がなく、
直接自宅へ出向いたところ、
半年以上、職場へもどこへも出ていないことを知ったのです』
「——兄は生活を投げ出すような人ではありません。
きっと悪い事件に巻き込まれているんです。
大崎さん。これだけのお話で、兄の行方を追えるでしょうか」
涙目を寄せられる。
自分が返事をする番だ。
しかし。
何故か声が出なかった——
「大崎さん?」
「」
肺が勝手に収縮する。
汗が全身の血を冷やす。
呼吸、できない。
この写真から、この少年から、目を離せない。
いや、違う。
少年の瞳に、惹きつけられている——
ふいに体がソファに沈んだ。
隣に静馬さんがいた。
肩には腕が回されている。
馴れ馴れしい距離感の一方で、
彼の眼差しは依頼人・奈緒美さんだけに向けられていた。
「あなたは……」
「同じく、探偵社の者です」
「先ほどあちらに座っていらした方……?」
「いえ? 見間違いでしょう」
静馬さんが平然と嘘を返し、奈緒美さんは頭を下げる。
……こんなことを真に受けてしまうなんて、
彼女の日々の心労がうかがい知れる。
静馬さんは書類に触れ出した。
「お兄さまは渋谷にお住まいのようで」
「はい」
「この鍵は?」
「家を開けるため、警察に作ってもらいました」
「では、捜索願の届出は済んでいると」
「はい。ですが、進展がなく……」
「それでうちにご依頼を」
「はい」
会話は速く、事実だけが行き交った。
「一つ、よろしいですか」
「はい」
「どうして神奈川の探偵に?」
それは自分も知りたい。
彼女は一瞬、言葉を詰まらせた。
「都内の探偵にも相談しました。
でも、全て断られてしまって……」
「断られる?」
「理由はわかりません。
こうして向き合ってくださったのは、
新木場探偵社さんだけなんです……」
「どうぞ、心ゆくまで泣いてください。
うちは依頼人の心に寄り添うことがモットーですから」
指を差された。
「お兄さまは必ず見つけ出します。
うちのエース、大崎探偵が」
奈緒美さんはやがて笑顔になって出て行った。
外には黒い車が停まっていた。
背の高い男性がドアを開けて彼女を迎える。
ガラス越しに見るその光景は、
外国映画を見るようだった。
残されたのは書類と、鍵と、写真。
それから静馬さんの微笑みだ。
「行方不明者の足取り調査——
腕が鳴るね大崎探偵」
「勝手に話を進めないでください」
「でも全部聞けたろ」
彼は煙草に火を点けた。
「面談の質問には順序があるんです」
「話したいことをさっさと話したほうが、
依頼人は気が楽だ。
元依頼人としての貴重な意見な、これ」
「仕事に関わらないでください」
「冷た。
せっかく君のために出てきてあげたのに」
「は?」
「自覚なかった?」
すると彼は少年の写真に視線を導いた。
「これ見た途端、君、最低の顔色になってた。
肩で呼吸して冷や汗かいて。
うんこ我慢してるみたいな顔で——」
自分は手早く片付けた。
「場所の提供ありがとうございました」
「またな。頼ってくれて、嬉しかったよ」
外は酷い暑さだった。
日差しの逃げ場を見つけられず、
流しのタクシーに飛び乗った。
静馬さんに言われた通りだった。
写真を見た瞬間、自分には異変があった。
自分の胸の深くから、
冷たい何かが浮かび上がる感覚があったんだ。
けれど、今は落ち着いている。
冷静に写真を見つめ返すことができる。
この違和感の正体に、気がつき始めたんだ。
自分はこの感覚を、この少年を、
どうやら知っている——
代々木に近い渋谷の住宅街。
有明勝太郎の家は静寂に包まれていた。
電気はいつからか止まっている。
外から差し込む光だけが頼りだ。
——食器は二人分。
そのうち一人分は戸棚の奥のほうに置かれている。
水回りや衣類については一人分——
かつて人の出入りがあったようだが、
現在は一人暮らしであると推測できる。
しかし、全ては家人を失い、等しくほこりを纏っていた。
暗くなる前に社へ戻る。
最初の調査結果を奈緒美さんに伝えた。
「——兄の趣味、ですか?」
「音楽やスポーツ、読書など」
「そういえば少しの間だけ、ピアノを習っていたようでした。
なかなか上達しなくて、
一つの練習曲を繰り返し弾いていたのを覚えています。
それが、何か?」
「渋谷の家に、趣味のものが一つもないんです。
有明さんにはどこか、別の家があるのでは?」
彼女ははっと息を飲む。
それから思い出すように言った。
「別荘がありました。
まだ父が生きていた頃、
家族でよく訪れていたんです。
兄はその家が好きでしたから、もしかしたら……」
「場所は」
「覚えていません。でも、景色なら覚えています。
あれは——」
『島』
『丘』
『町灯り』
彼女が呟く記憶の断片を、紙に描き起こしていく。
そうして出来上がった絵を——
——翌日、湘南・稲村ヶ崎の海に重ねた。
ここだ。
右手に江ノ島、
左手に小高い丘がある。
丘には男がいた。
彼はイーゼルを立て、海と浜を見下ろしていた。
「水彩ですか」
「えぇ」
「今日の景色ではないようですが」
「少し前です。
波の穏やかな日にスケッチしてしまって」
「近所にお住まいなんですね」
「えぇ」
「自分は有明と申します」
彼は筆を止めた。
「この辺りに親族が住んでいるんです。
同名の家を知りませんか」
「さぁ」
彼は再び海を見た。
最初の聞き込みは空回りに終わった。
画家の邪魔をしては悪い、
自分は町へと目を向けた。
「有明さん」
呼び止められる。
振り返ると、彼は画材を片付けていた。
「一緒に探しましょうか」
拒む理由もなく、
自分たちは歩を並べた。
「稲村ヶ崎は別荘が多いんです。
たまにやってくる都会の人とは、
顔を合わす機会はほとんどありません」
坂を上る道中で、いくつか表札を通りすぎる。
振り返り、手帖の景色と海を重ねる。
同じ海だ。けれど、最初の印象と遠ざかって見えた。
「もう少し、違う場所を当たっても?」
「その絵は?」
「別荘からの景色です。
思い出を書き起こしました」
「……なるほど」
今度は自分が率先して歩く。
後ろを地元の男が着いてくる、おかしな行列だった。
やがて表札を見つけた。
塀の奥には二階建ての建物がある。
有明勝太郎、その人の家に間違いなかった——
ドアをノックするが、屋内に乾いて響く。
誰の耳にも触れる感覚はない。
「留守でしょうね。帰ってくるまで、待たれては?」
鍵は閉まっていた。
「あの、親戚といえ、勝手にドアに触れては……」
自分は近くの窓を割った。
「!?」
「許可はおりています。
不在であれば、踏み込んででも探してほしいと」
「だ、誰の権限で!?」
「妹さんです」
「それにしても……!」
「有明さんが行方不明なんです。
ここから先は、お帰りになってください」
「僕も、ついていきます……!
あ、あなたが泥棒の可能性もありますから……!」
自分は窓から屋内に入った。
内側から玄関戸を開け、丁寧に、彼を引き入れた。
日頃から電気を通していないのか、
手持ちランプが置かれていた。
靴が一足ある、
しかし、自分たち以外の息はない。
屋内はほこりの臭いが充満していた。
どこからか生ぬるい風を感じる。
それは実際に肌を撫でるものではなく、
五感を曇らす、不快な気配だった。
廊下の突きあたり、
最初の扉に手をかける。
その一室こそ、
臭気の発生源だった。
「警察を」
ほこりの臭いだと思っていたものは——
「警察を——!」
隣には、誰も居なくなっていた。
先ほどまでそばにいたはずの男は、
忽然と、姿を消していた。
「——ご親族から依頼を受けて、
安否確認に訪れました」
「では、あなたが第一発見者なのですね」
自分と、もう一人——。
しかし男の名前を聞いていなかったことを思い出す。
そも、男がいた証拠もなく、言及を控えざるを得なかった。
「……はい」
はたして自分は、
「現場」と化した別荘にて、警察の聴取を受けていた。
しばらくして玄関が騒がしくなる。
女性の悲鳴が近づいた。
「お兄さま! お兄さま!」
奈緒美さんは脇目も振らず、現場の浴室へ飛び込んだ。
——遺体は水気のない浴槽に横たわっていた。
全身は干からびて、皮膚が縮み、
骨の輪郭を浮き上がらせ。
安らかな寝姿のまま、亡くなっていた——
遺体に触れようとする奈緒美さんを、
彼女の夫がすんでのところで抱き留める。
あとから来た警官が、
彼女に封筒を手渡した。
「二階の寝室に遺書が見つかりました。
奈緒美さん、あなた宛てです」
奈緒美さんは震える瞳で文字を追い、
それからぽつぽつと、静かに涙を落とした——
「酷い顔だね、大崎君」
「……あなたこそ」
数日ぶりに会う静馬さんは、浅黒く日焼けしていた。
だらしないと思うのは、目元だけサングラス型に白く残っているところだ。
自分らは窓辺の席にいて、
静馬さんのほうにだけ日が差していた。
「連日暑いから、サーフィンに行ってきたんだ。
といっても、俺は早々にバテて寝転がってたんだけど」
「誰と」
「ん?」
「誰と一緒に、海に」
「えーと、俺一人。俺一人だよ」
彼はこちらの珈琲に、勝手に砂糖を足した。
「他の探偵が、奈緒美さんの依頼を
断った理由がわかりました」
「何?」
「兄を見つけ出しても、悲しませるだけだったんです」
行方不明者の捜索は、
その顛末が幸福であった例のほうが少ないんだ。
「君は馬鹿正直によくやったよ。
確かに妹さんにとっては辛い真実だっただろうけど。
兄の気持ちを考えてみれば、まぁ「幸い」だろう。
誰にも見つけてもらえないよりはさ」
自分は黙り、また考え込んだ。
「遺書にはどんなことが書いてあったの?」
「——なおみ。どうか私の分まで幸せになって——」
「まるで結婚式の祝辞だな。
美談美談」
「……あの仏が、本物の兄ならば」
「え?」
——遺体の爪は伸び、わずかに白髪も見てとれた。
「二十代の遺体とは思えなかったんです」
「でも妹さんは兄って認めた」
「あの時、奈緒美さんは錯乱していました」
「でもほら、遺書があった」
「実の妹の名前をひらがなで記すでしょうか」
「つまり……?」
「誰かが、別の遺体を有明勝太郎として用意した」
「その誰かは、何のために」
「わかりません」
「あとは警察の仕事だ。
遺書があったとはいえ、遺体は検死に回される」
「それが……。
奈緒美さんの希望で、すぐに火葬へ出されてしまったんです」
遺書の有無から、
警察も自殺として捜査を終えた。
「本題です、静馬さん」
自分はようやく、視線を上げた。
「有明勝太郎の別荘へ来ていただけませんか。
建築に詳しいあなたなら、
見えるものもあると思って——」
再び、稲村ヶ崎の家に立つ。
静馬さんは眩しそうに見上げた。
「この洋風の感じ、明治のセンスだ。
軍人か、外交官の家系かもしれない」
扉の鍵は、あの時から開かれたままだった。
「一階に家具はほとんどない、売り払ったのかな。
外装が豪華なのが余計に寂しいね」
静馬さんは何か痕跡を辿るように、二階へと上がった。
寝室だ。
「遺書は、このピアノの上に置かれていました」
「丁度ほこりが剥げてる。
遺書はここに置かれて、3、4ヶ月経過ってところか」
静馬さんはベランダへ出た。
自分も続く。
吹き抜けた海風に思い起こされ、
風景画を取り出した。
……全く、同じ景色だ。
奈緒美さんの言葉から受けた印象、
そのままの景色が広がっていた。
絵を重ねると、光が透け、
ゆらゆらと海が動き出した。
静馬さんはドアノブを見つめていた。
「玄関のランプ。
ほこり被ってなかったな。
誰か動かした?」
「触れていません」
「それとこのドアノブ。
錆びてない。
海風の当たる場所なら金属は早く錆びる。
頻繁に手で触れて、磨かない限りはね」
「どういうことですか?」
「今も誰か、この家に住んでるんじゃない?」
——小雨の降る朝だった。
窓ガラスの歪みに沿って雨が流れ、
室内に涙のような影を落としている。
奈緒美さんの薬指の指輪だけが、
鮮やかに光を放っていた。
「結婚式は無事終わりました。
最初は白無垢。
お色直しは真っ赤なドレス。
テーブルクロスのフリルまで、
私がこだわって発注したんです」
彼女はそう言って、並べた写真をさらさらと撫でた。
「あなたのおかげです、大崎さん。
また何かあった時は、あなたに相談を……」
「……奈緒美さん」
「はい」
「差し出がましい申し出ですが、
再調査をさせてください」
声が震えた。
どう伝えるべきか。
どう思われてしまうか。
慎重に、冷静に、
彼女の心を荒らさないよう踏み込んだ。
「ご遺体の状況と室内の様子から、
他殺の可能性があります」
「……」
「あれから有明さんの職場にも伺いました。
書類上の筆跡と、遺書の筆跡が、
一致しないんです」
「大切なお手紙だから、兄はきっと丁寧に……」
「そう思い込ませたい犯人が、いるかもしれないんです」
彼女はまばたきをしなかった。
「あのご遺体が有明さんである証拠も、
なかった証拠もありません。
ですからもう一度、
有明さんを探す許可を自分に——」
「大崎さん」
手を取られた。
机の端で、いつの間にか震えていた自分の拳だった。
彼女は細い指で、一本一本、この強ばりを解いていく。
自分が我に返るのを見て、彼女は微笑んだ。
「あなたはちゃんと、兄を見つけてくださいました」
違う。
自分は一度たりとも、確信していない。
「お兄さまの笑顔をよく覚えています。
あの仏様の瞼は、お兄さまの瞳そのまま」
違う。
自分は知っている。
あの人の本当の微笑みを。
「あなたがお兄さまを、天国へ導いてくれたの」
彼女は鞄から、大量の写真を取り出した。
涙する花嫁。
涙する周囲の人々。
しかし彼らは徐々に、
笑みを取り戻していく。
まるで映画のような連続写真だった。
その泣き笑いが今、目の前にも咲いていた。
「あなたを御招待すればよかった。
だってこの感動は、あなた無しでは叶いませんもの」
「な、奈緒美さん」
「ねぇこの写真、見てください」
白い骨壺を抱きしめる、赤い花嫁……。
「あぁ私、とっても可愛い!」
写真の中の自分自身に、彼女は魅入っていた。
彼女が去った後、
自分はいつまでも立ち上がれないでいた。
今日の天気は涙雨だと思った。
真実を知る誰かの、無念の涙だ。
気がつくと、向かいに静馬さんが座っていた。
「……本物の兄を見つけてとは、言ってなかったね。
悲劇のヒロインになれるなら、
どんな結末でもよかったんだろう」
生きていても。
死んでいても。
感動の再会は演出できる。
彼女は真実よりも、美しい結末を選んだらしい——
自分は手帖を開いた。
少年の人相書きと、遺体の様相、ベランダの景色。
それらのページを破り捨て。
静馬さんの煙草を奪い、火をつけた。
ガラスの灰皿の中、
それらは黒く縮んでいく。
この一連の火葬を、
彼は目を丸くして眺めていた。
「静馬さん。
自分に、サーフィンを教えてください」
国道134号線を走る。
都内の雨を抜けると、嘘のような晴天が広がっていた。
やって来たのは稲村ヶ崎の浜だった。
岩陰で服を脱ぐ。
静馬さんはあれからサングラスの形も分からないほどに日焼けしている。
車の上にもサーフボードを積んで、相当入れ込んでいると思われた。
自分は水着の用意がないため、
裾の長い下着一枚になって浜に臨む。
こんな露出も、浜では普通のことだった。
しかし、アメリカ人譲りの大きなサーフボードがどうしても目立つ。
砂上での練習風景に、子供たちが集まったりもした。
「——パドリングとテイクオフの方法は、そんなもんかな。
次は波の選び方だけど……」
彼は遠くの波を指でなぞった。
「あそこ、見えるか?
波が海底の岩に当たって、丁度良い具合に崩れてる。
君みたいな初心者に優しいサーフポイントだ」
——自分は波を探すうち、
ふと、丘の人影に気がついた。
男はまた絵を描いていた。
今にして思う。
あの男の絵は、
有明さんのベランダから見える景色だったと。
有明さんは生きているのだろうか。
死んでいるのだろうか。
もしも奈緒美さんが真実と出会した時、
どんな言葉を、兄にかけるだろうか——
「大崎君! 沖に良い波が来た!
ここで待ってろ〜お手本見せてやる!」
静馬さんは走り出す。
影一つ無い紺碧の海へ、何も恐怖心がないように。
自分の足は無意識に、
彼の後ろを追っていた。
砂を蹴り。
泡を踏み。
ボートとともに、波へ飛び乗る。
——パドリング
腹ばいに、いくつもの波を越える。
波が、何度も静馬さんの背を隠す。
越える度に、彼の背が見え安堵する。
次の瞬間、大きな力に身体を持ち上げられた。
大波だ。
両手で、両足で、力一杯にいなす。
——テイクオフ
力任せじゃない。
暴力でもない。
自分は、自分の内側にある波を、
生まれて初めて操れた気がした。
大波の先が崩れる。
青い筒の中を自分らは走った。
「っなんでついてきてんの!!?」
「わかりません!」
「っていうかなんでついて来れてんの!!?」
「それもわかりません!」
走るそばから背後の波が崩れる。
重心を傾け、逃げる速度を上げる。
けれど——筒が潰れ。
自分たちは波に巻き取られた。
いつからか、海上に浮かんでいた。
背中には固いサーフボードの浮力がある。
横にはずっと、静馬さんの荒い息があった。
「こんな、大波、初めて乗ったッ……」
「自分もです」
「それは、そうじゃない!?
サーフィン自体、初めてなんだからッ……」
彼は両腕で顔を覆っていた。
「何の涙ですか」
「それ、俺に聞く……?」
「これくらいの波なら普通に泳げます」
「……」
「湘南の子供は、海で水泳訓練を受けるんです」
今もそこかしこで笑い声が浮かんでは沈んだりしている。
誰も海に怯えてなんかいない、
その優しさも知っているからだ。
「じゃあ、心配した俺は馬鹿みたい……?」
「はい」
「俺は本当に馬鹿だよ。
君が馬鹿なの忘れてたっ……」
ようやく彼は笑った。
「……でも、才能あると思いませんか。
あなたにサーフィンを教えた誰かより」
「アハハ。妬いてるの?」
「このボードも、返すつもりありませんから」
「相手はただの友達だよ」
彼は上体を起こす。
濡れた肩越しに、自分を見下ろした。
「これだけ裸になってもわかんない?」
「……」
「君のつけた痕しかないけど」
彼の目に次の波が映る。
彼は微笑みだけよこすと、
沖へ向かっていく。
「今度こそ、大人しく待ってろよ。
それと……あんまり俺から目を離さないこと」
いつかの水泳教師の言葉を思い出す。
海ではふざけるな、嘘をつくな。
足を取られないための教訓だ。
いつも冗談ばかりの静馬さんだが、
波の上では、信じてみてもいい気がした。
この夏が終われば、この趣味もきっと終わる。
秋のフィルムカメラも、冬の彫刻もそうだった。
呆れる、けれど。
びしょ濡れの彼が小さく手を振った。
その仕草一つでまた呼吸が浅くなる。
彼からとっくに、目が離せない——
「湘南十景 -波-」1957.静馬ルート










