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​演 名前

​演 名前

​主人公大崎

新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、

初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだ
が、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
 

今回、依頼主・台場静馬と容姿が

似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。

 

​主人公大崎

新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、

初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだ
が、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
 

今回、依頼主・台場静馬と容姿が

似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。

 

静謐な壇上に、柔らかい光が降り積もる。
30人の生徒は前を見据え、
今、一つの大きな事を為そうとしていた。

指揮者が両手で針路を示す。
伴奏者の指が鍵盤を駆ける。

その瞬間——

 

 

 

目が覚めた。
階下で電話が鳴っている。
自分はたった一度まばたきをしたのち、
矢のように布団から飛び出し、受話器に取り付いた。
蝉が一匹、鳴く朝だった。

「おはようございます。青海です」
「おは、おはようございます」
口が回らず舌を噛む。
「朝早くに申し訳ありません。
 起こしてしまいましたね」
「いえ、起きて支度していました」
そう言いながら、
寝癖を掌で撫でつける。
「今はどちらに?」
「宿舎です。生徒たちの見送りを終えたところです」
「引率、お疲れさまです。
 ではこのあと、近くまで迎えに——」
「申し訳ありません」
そこでようやく目が冴える。
「本日の予定について……
 日を改めてもよろしいでしょうか。
 急用が出来てしまったんです」
「どうぞ、そちらを優先してください」
「すみません。
 また連絡します」

受話器を持ったまま、
ガラス戸に差し込む朝日をぼうっと眺めていた。
窓一枚を隔て、外はもう夏なんだなと、
ほとんど他人事のように考えていた。
自分はこれからこの夏に、一人きりになるらしいのに。

誰だって急用、急変はある。
だから代わりの一日の過ごし方くらい
用意しておくべきなのに。
さっと思い浮かばない自分は、やはり器量が悪い。

そのうち二匹目の蝉が鳴き始めた。
「……今日、暇な感じ?」
静馬さんという
ちゃらんぽらんな男が、
にやけた眼をしてやってきた。
「朝っぱらから浮かない顔して。
 今の電話、嫌な知らせだったんだろ」
「あなたには関係ありません。
 というか、また勝手に家に上がって」
「この家の廊下、ひんやりして寝心地いいんだもん。
 冬には来ないから安心して」
夏みたいな男だ、とも思った。
蝉や夕立や日の入りや——
夏は唐突なもので溢れている。
ゆっくり咲いてゆっくり散る桜の春や、
じわじわと寒くなってこんこんと降る雪の冬、
それらとまったく正反対の気質だ。
夏はいつも、こちらの都合を待たずやって来る。

ようやく我に返って受話器を置く。
この男に代わり、
廊下の布団を片付けることにした。
「暇ならさぁ俺とどっかにドライブ行かない?」
「行きません」
「じゃあ君の一日に付き合ってあげよう」
「迷惑です」
「昼は何食べたい?
 肉? 焼き肉? ステーキ?」
「あなたの食べたいものですよね、全部」
「で、君は?」
「何も食べずに寝るつもりです」
「はぁ。わかんないかぁ。
 君が寂しくないように、
 お兄さんがかまってあげてるの」
「……」
「振られちゃって可哀想な君に、特別ボーナス。
 今日一日、君のわがままを何でも聞いてあげよう」
「ありがとうございます。
 では、帰ってください」
「うんうんうん。
 また来てやるからな」
静馬さんは悲しい音色の口笛を吹きつつ、
軽薄な足取りで出て行った。
車のエンジンが確かに遠ざかる。
その素直さを意外に思う。
それほど今の自分は「みじめ」に見えるらしい。



——8月の初め。世は夏休み。
青海先生と生徒たちは
合唱コンクール予選大会のため、
大島から東京にやってきていた。
今朝の夢は、
彼らを案じる自分の心が、無意識に作ってしまった光景だろう。
大会終了翌日の今日、
青海さんは余暇を自分と過ごしてくれるはずだった。
しかし——


急用。
その二文字の裏にある事情を、
自分は聞きそびれた。
宿舎に折り返すべきか。
しかしそれは、彼の負担にならないか。
受話器を見つめていると、
電話がまたビリリと鳴った。

「——青海です。大崎さんですね?」
「はい」
「先ほどは申し訳ありません。
 きっと言葉が足りず」
「気にしないでください。
 それより、急ぎの用があるんでしょう」
「その件ですが。
 あなたにも来ていただけないでしょうか」
「もちろんです」
「では江ノ島に」
「はい……え?」
「江ノ島です。
 大江の「江」とカタカナの「ノ」と「島」です」
「わ、わかります。わかりました。
 とにかく江ノ島に向かいます」
「ありがとうございます。
 そこで——あなたの力を貸してください」

電話は途切れた。
空になった受話器の向こうで、
青海さんがもう歩き出している気配を感じる。
自分も急ぎ身支度に取りかかった。





——江ノ島とは、相模湾に浮かぶ小さな島だ。
弁財天を祀る神社を有し、
近辺では鎌倉に次ぐ行楽地として知られている。
海流により何度も桟橋が流され、
現在はコンクリートの橋が架けられ、
人々の往来を支えている——

江ノ島での急用、
そんな事案に驚きつつも島へ向かう。
不思議と迷いや戸惑いはなく、
気づけば自分も行楽客たちと同じ目の動きをしていた。

最寄り駅に着いたのは、自分が先だった。
やがて都内からの電車がやって来て、
涼しい影の男性を降ろす。
自分たちはすぐに互いを見つけた。

黒いスーツ。襟の高い白シャツ。
そして手には、フリルのついた女性物のパラソル——

「ご足労おかけしました。
 お久しぶりです。大崎さん」
青海さんはパラソルを開く。
海風が、そのフリルを複雑に揺らす。
彼は影を半分、傾けてくれた。
「改めて。先ほどは申し訳ありません。
 困らせる電話をしてしまい」
「いえ……」
「それでは向かいましょう。
 江ノ島へ」
「は、はい」
彼は声音は静かだが、
その所作は急いていた——



陸と島を一本で繋ぐ、弁天橋。
日差しを遮るものは何もなく、
薄い蜃気楼が立ち、
向こうの島を実際よりも遠くに見せている。
島の後ろには入道雲が立っていた。
その熱視線から隠れるように、
自分たちはパラソルの中にくるまった。
「——再三ですが申し訳ありません。
 せっかく休みを合わせていただいたのに」
「自分の仕事は、融通が利きますから」
「すみません」
「それより、地区予選の結果はどうでしたか」
「敗退しました」
「意外です」

今年4月に創部したばかりとはいえ、
生徒たちは熱心だと聞いていた。
何より、青海さんの指導があるというのに。

「根本的に
 うちの部は優勝の条件を満たしていません。
 部員7名。伴奏者0名。
 ピアノを弾ける生徒がいないため私が担いました」
大きな舞台に立つ、小さな合唱部の姿が頭に浮かぶ。
今朝の夢の壇上は、ひょっとすると、
彼らではない、別の学校の栄光だったのかも知れない。
何より一番気掛かりなのは——
「部員の様子は?」
「次のコンクールに向けて
 計画を練っています。
 悔しそうに。でも楽しそうに。島へ帰っていきました」
さすが、有志によって創部されただけある。
こんなことでは落ち込まないんだ。


橋の上をただ歩く。
行き交う誰もが汗を光らせている。
自分は次第に、別の冷や汗を滲ませていた。

青海さんは「教師」の顔をしている。
スーツを着て。背筋を伸ばして。
対して自分は浮ついた格好をしている。
開襟シャツを着て。前髪などかき上げて。
……いますぐ脱ぎ去りたい気持ちになる。
青海さんはほとんどこちらを向かず、
ただ島だけを見つめていた。

「——生徒が家出をしたんです。
 今朝学校から連絡がありました」

島に渡ると、青銅の鳥居が建っていた。
急な坂には土産物屋が肩を寄せ合っている。
仲見世通りと呼ばれるこの道は、
すでに観光客でいっぱいだった。

「合唱部の部員ですか?」
「いいえ。一生徒です」
「自分も目を配ります。
 その生徒の特徴は?」
「今現在制服は着ていないでしょうし。
 髪もどう崩しているか。
 でも——
 一目見ればわかると思います。
 生徒を知らないあなたでも」
不思議な口ぶりだった。


通りの終わりには、第二の鳥居と石段が待っていた。
江島神社はこの山奥にある。
「神社ではなく
 島の裏に向かいたいんです」
「それなら、こちらへ——」

江ノ島は二つの山が重なったような形をしていて、
足元の起伏が激しい。
しかし右手には、
山の外周に沿って緩やかに進む迂回路がある。
先を急ぐ人が使う近道だ。

自分ら以外に誰もいない。
辺りは葉影が敷き詰められていて、
青海さんはパラソルを閉じた。

「不登校の生徒でした」
「学校生活に、何か不満が?」
「わかりません。
 とくにいじめのようなものは無いと思われます。
 音楽の授業には欠かさず出席していたので
 学友との仲睦まじい様子も知っています」
「では家の問題でしょうか」
「裕福なご家庭です。
 何不自由もない」

緩やかな坂が途切れず続く。
蝉の声が濃度を増す。
汗を拭いたくなるが、
青海さんの歩調は緩まない。
その横顔は相変わらず、厳しい「教師」のそれだった。

「昔。冬の夜。
 私も家出したことがあるんです。
 あまりに幸せで。
 ここにいてはいけない気がして。
 裸足で踏んだ雪の冷たさを今も覚えています」
「自分にも、似たような経験があります。
 自分の場合はもっと幼くて、
 好奇心から遠くの田んぼに向かっていました」
指先に触れた稲穂は、ざらざらとしていた。
全く心地よいものではなかった。
それが目いっぱいに広がっていることに気づいた途端、
恐ろしくなった。
あれはきっと「孤独」の感触だった。
「その時。あなたを連れ戻してくれる方はいましたか」
「振り返ると、すぐ後ろに祖母がいました」
「子供の考えは結局
 大人に筒抜けなんですね——」
青海さんにも、
その身体を抱き上げて、
雪を払ってくれる人がいたんだろう。



二つの山を越えると、急に視界が青くひらけた。
海だ。
島裏だ。
ここまで来る人はほとんどいない。
階段を下る途中、自分たちは立ち止まった。
海の向こうには大島が浮かぶ。
青海さんと生徒たちが暮らすその島が、
はっきりと色を発している。
「今日、あなたを連れて来たかったのは
 この場所なんです」
「……そうだったんですね」
「あなたにとっても海は珍しくないでしょう。
 でも、ここから見える大島が
 とても綺麗なことを伝えたくて——」
「駄目です」
青海さんは海を向いたままそう言った。
「山に来て他の山を褒めてはいけないんです。
 島に来て他の島を褒めることも同様です」
「それもお母様の教えですか?」
「はい。
 そんなことを言えば
 土地の女神が彼方の女神に嫉妬してしまうと」
「不思議な言い伝えですね」
「誰にも恨まれずにいたいものです。私も——」
「え?」
青海さんはその語尾を、
確かに自分を見つめて言った。

呆然とする自分を置きざりに、
彼は早足になって階段を下る。
見晴台の縁から身を乗り出すと、
白いパラソルを高く掲げた。
「青海さん!?」
「大崎さん。この傘を高くあげてください。
 目印になるように。
 あのヨットに届くように」
海上にはスナイプ級のヨットがあった。
それは大島の方角から、
真っ直ぐこちらに進んでいる。
自分はパラソルを受け取って、
言われるがまま振り回した。
陽光が乱反射する。
取っ手についた値札に気づく。
青海さんはこのために白いパラソルを買ったんだ——
ヨットの帆が風に揺れ、眩しい光を打ち返す。
それはヨットからの返事だった。


いや、まさか。
そんな馬鹿な。
大島から江ノ島まで、あんな小さなヨットで……。

「彼のヨットがなくなっていたことで
 彼の家出に気づけたそうです」

後方には大きな船影がある。
警察の船だ。
例によって少年は、
その大人の気配に気づいてないと思われる。

自分たちは岩場に降りた。
ヨットの着岸を誘導するためだった。
事情を察した人々が、沿岸に集まり始める。

船体が跳ねるたび、
水飛沫が細かく散る。
危うい操行に、
大人は息を詰めて目を凝らす。

危険だ。
無自覚だ。
けれど自分は、少年を責める気持ちになれなかった。
「叱りますか?」
自分でも驚くほど、
弱々しい声で尋ねてしまった。
青海さんはほんの少し目を丸くして、
それからすぐにはにかんだ。
「叱りません」
そのまま、視線を海へ戻す。
「学校からの連絡は
 至急大島に戻るようにとのことでした。
 私に生徒の聴取を願いたいと。
 でも断ってここへ来ました。
 わかっていたんです。
 一度海へ出たら戻りも沈みもしない生徒だと。
 彼のピアノを聞いた日から——」
その笑みを自分にも向けてくれる。
「ここへ来たのはただ。
『迎え』がいないと寂しいと思い」
「自分は、力になれたでしょうか」
「はい。ここまで迷わず案内していただけたおかげで
 良いピアノ奏者を勧誘できそうです」


ヨットが暗礁に乗り上げる。
瞬く間にひっくり返る。
自分が海に飛び込んで、
生徒の体を掬い上げた。

ヨットは波に砕かれていった。
生徒は先生の顔を見ると、
ほっとした様子で目を閉じた——





渡し船に頼んで、
島の正面まで運んでもらう。
タクシーの後部座席には、眠る生徒と付き添いの青海先生。
他には誰も乗らない。
「——これから生徒を送ります。
 お礼をできず申し訳ありません」
「いえ」
「それでは。
 またのちほど——」
タクシーは情緒もなく、無機質に走り出す。

こうして弁天橋の入り口に、
ずぶ濡れの男が一人取り残された。

……こんな体で、どうやって帰るか。

駅舎の電話が目につく。
静馬さんにかければ車を出してくれるだろう。
あの人なら、座席を濡らしても怒りはしない。
逆に何か言われても、痛くも痒くもなんともない。
だが、向かう足が遠のいた。

——島にいて他の島を褒めてはならず

そんな言葉がふいに思い出された。





日暮れの頃、見慣れた街へ戻って来た。
濡れた体を乾かすため歩いてきた次第だ。
しかし海沿いを歩いてきたせいで
海風の塩気が全身に張りついてしまった。
髪はごわごわに固まり、
前髪を崩そうにも解けない。
仕方なく前髪を上げ、
うつむいて歩いた。

シャツは今日のために買ったものだった。
埃一つ、臭い一つないように。
ポマードは理容師に選んでもらったものだった。
デートかと聞かれて、自分は否定しなかった。
人が見れば、これは「みじめ」なんだろう。
けれど自分の心に従って名付けるのなら、
これは多分、「幸い」だった。

青海さんの真摯さに触れられた。
教師としての横顔を、
こんなにも近くで見るのは初めてだった。
それは、自分がずっと望んでいたことだった——






オレンジ色の夕陽とともに、玄関戸を開ける。
そこには凛と、
深い青のシルエットが座っていた。
「青海さん?」
「お邪魔しています。
 遅かったですね」
「お帰りになったはずでは」

「そのつもりでしたが。
 親御さんが飛行機で迎えにいらっしゃいました」

「本当に、裕福なご家庭ですね……」
「島内に船が五隻。
 車が三台。
 そしてピアノが一台。
 そんなご家庭に生まれた彼は
 どうやら退屈していたようです」
贅沢にも思える。
だが当人にとっては、
持たざるのと同じ苦痛だったのかもしれない。

ともあれ、これで一件落着だ。

青海さんは立ち上がり、浅く頭を下げた。
「今日から三日間お世話になります。
 当初の予定どおり」
「どうぞ、上がってください——」


改めて、青海さんがやって来た。


彼は部屋の隅で、ささやかな荷をほどく。
着替えや日用品、
彼の空気がこの部屋に馴染んでいく。

彼はスーツを脱ぎ、和装に着替えた。
帯を締め終える頃、
肩越しにこちらを振り返る。
「あなたの香水。良い香りですね」
「香水……?」
「今日の服や髪と同じくらい
 清潔にしていると思ったのですが」
「いえ、
 とくに何もしていません」
「では緋色さん。あなたの香りでしたか」

夏はやはり唐突だ。
夕日がいきなり光度を増して、
視界の全部を滲ませる。

「楓さん」
「はい」
「おかえりなさい」

誰の先生でも、
誰の知人でもない。
この時間を迎えられ、
彼をようやく、抱きしめた——





「湘南十景 -島-」1958.青海ルート

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