top of page

​演 名前

​演 名前

​主人公大崎

新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、

初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだ
が、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
 

今回、依頼主・台場静馬と容姿が

似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。

 

​主人公大崎

新木場探偵社に勤務する若き探偵。
身長は六尺と大柄で、

初対面からの第一印象は大抵良くない。
無愛嬌ゆえ近寄りがたいと思われがちだ
が、
本当は真面目で物静かなだけの青年。
 

今回、依頼主・台場静馬と容姿が

似ていたことから
なり代わっての代理参列という
奇妙な依頼を引き受ける。

 

春に車の免許を取った。
新木場さんと品川君に遅れて、
探偵社では最後の取得だった。

車は便利だが責任を伴う。
自分にはそれを背負える気がしなかったんだ。
けれど今年、
ある晴れた日にふと、
隣に誰かを乗せたい気持ちになった。




快晴の空港で
呉一郎さんがこちらを見つける。
彼は大きく手を振り、
周囲の喧噪から抜け出してきた。
「お待たせいたしました!」
「迷いませんでしたか」
「少しだけ」
彼は熱っぽく笑う。
行く人、来る人、観光客で賑わう夏だった。



助手席に彼を迎え、海岸沿いの道を行く。
窓を開けるとカモメが寄ってきて、
風とともに並走した。
……先ほどから気になっているのは、
彼が片手に持て余す、大きな林檎だ。
「呉一郎さん、それは?」
「空港で頂戴しました」
「特産市でも?」
「いえ……。
 林檎をたくさん抱えた方が、足元に落としてしまわれて。
 それを拾って届けたところ、お礼に一つくださったのです」
「どうするつもりですか?」
「どうする、とは?
 おやつにしようと、思っておりますが……」
「毒林檎の可能性があります」
「うふふ、そんなまさか。
 わたくしが「白雪姫」のようなこと」
彼は指の力だけで林檎をかち割った。
見事な4等分だった。
「良い香りです」
「…………」
「どうか心配なさらないでください。
 だって、とても優しそうな「林檎売り」さんでしたから」
信号待ちで一欠片いただく。
毒林檎の癖に、香り高く瑞々しい。
林檎への疑念は、噛むたびにほどけていった。



海沿いを離れ、山道へと踏み入る。
ハンドルを握る指に、
新木場さんが記した地図を挟みながら……。
「……本土に着いて早々、
 依頼に付き合わせてすみません」
「大切なお仕事に同行させていただけて、
 嬉しゅうございます」
仕事といっても、
新木場さん本人からの頼みだった。
二宮町の農家から、ある物を受け取る——それだけの用件だ。
車を借りるついでのはずが、
目的地が山奥とは聞いていない。
簡素な地図と、険しい現実が、
自分の目を何度も疑わせる。
「確かに、この辺りのはずなんですが……」
その時、急停車した。
ずしんと体に重さがかかる。
後輪がむなしく空転した。
まずい、ぬかるみを踏んだ。
焦る自分をよそに、
呉一郎さんはすぐさま外へ飛び出し、
車の背に両手を当てた。
「押します」
その息に合わせてアクセルを踏むと、
車はいとも簡単に窮地を脱した。
「ありがとうございます」
「これくらい造作もございませんっ」
本当に、何事もない笑顔だった。


やがて森がぽっかりと開き、
段々畑が現れた。
キュウリ、ナス、トマト。
青々とした実りが
影を重ねず立ち並んでいる。
流れる雲と空の近さに、
随分高くまで登らされたと気づいた。

畑の上段には平屋があり、
そばには一本、大きな木が立っていた。
実がついている。
黄色の絵の具を、
そのまま絞ったような鮮やかさだった。

車を降り、住民を探す。
呉一郎さんは真っ先に何かを見つけ、
畑の奥を指差した。
「あちらの御方は?」
緑の中に農婦が一人。
背を丸く屈め、どうやら雑草を抜いている。
次の瞬間、
その老体が前のめりに倒れた。
「ご、ご婦人っ——!」





婦人を背負い、縁側へ運ぶ。
しばらく具合を見るが、
幸い頭にも体にも怪我はなかった。
「……また息子に叱られるわ。
 一人で働くなって、口酸っぱく言われていたのに」
「ご無事でなによりでございます」
「あなた方のおかげですわ。
 いらしてくれてありがとう。
 ところで、どなただったかしら……?」
「わたくしは……」
呉一郎さんは視線を戸惑わせ、
会話をこちらに譲った。
ようやく本題だ。
「新木場の息子です」
「探偵さんの!
 昔、お父さんがお世話になってねぇ」
「毎年受け取っているものがあるようで。
 今日は自分が、父の代わりに」
「そう。その時のお礼に、
 うちの野菜をお渡ししているの。
 でもねぇ……」
彼女は広い畑を見渡し、
寂しく首を傾げた。
「お父さん、何を見繕っていたのかしら——」



「好きな野菜をどうぞ」と言われ、
自分たちはそろそろと畑に入った。
自分がカゴを持ち、
呉一郎さんが野菜を選ぶ。
「どれも収穫時でございます。
 お言葉に甘えて、形の良いものを選びましょう」
様々な種類を、少しずついただく。
野菜に触れる彼の手は優しい。
まるで相手の目を見つめ、
了承を得てから摘むようだった。
カゴは重くなり、
指先にしびれが回る。
呉一郎さんは微笑みながら、
最後に一つ、丁寧にトマトを積んだ。

ふと風が吹き、つられて空を仰ぐ。
「あれは何の木でしょうか?」
「夏蜜柑の木でございますね」
「あれも収穫時ですか?」
「いいえ……」
彼は言いよどむ。
不思議とそこで、会話は途切れた。



縁側で昼食をいただいた。
おにぎり、たくあん、
濃い味付けの味噌汁。
特別な物は何もないのに、
何故か箸と食欲が進む。
「具材は全部、ここで穫れた物なんです。
 小さな畑でも、
 色んな種類を扱っているの」
「収穫はお母様一人でなさるのですか……?」
「いいえ。大丈夫。
 息子たちが明日、手伝いに来てくれますの」
婦人は夏蜜柑の木を見つめ、
遠い目で微笑んだ。
「本当はあれも、
 新木場さんにお渡ししたかったけれど……。
 お父さん、もっと低く育てればいいのに、
 こんなに大きな木にしてしまって。
 誰も手が届かないわ」
「差し支えなければ、
 わたくしに穫らせてください」
「え、えぇ。でも危ないわ——」
呉一郎さんは勢いよくおにぎりをほおばる。
彼の大きな笑顔と体格を見て、
婦人はすぐに心配をおさめた。


改めて、木は大きかった。
空に向かい、枝葉を高く広げている。
自分は脚立を支える重しに徹した。
呉一郎さんは軽々と登りつめ、
ハサミで一つ、収穫する。
足元の自分たちへ、
剥き立ての房を配ってくれた。
三人揃って、口へ運ぶ。
「……」
「……」
「……酸っぱいわねぇ」
酸っぱい。
そして、苦すぎる。
「夏蜜柑は、冬のうちに穫るの。
 それを夏まで寝かせて、
 ゆっくり甘さを引き出すんです。
 こんなに渋いんじゃあ、
 誰にも食べてもらえないわねぇ」
「良い食べ方がございます!」
呉一郎さんは思い立った様子で、
次々に実を摘み、片腕に蓄えていく。
その目はいつの間にか、黄色を写し取って輝いていた。
「砂糖と煮詰めれば、
 きっと美味しいマーマレードになります!
 全て収穫しても、よろしいでしょうか?」
婦人はあっけにとられながらも、
躊躇わずに頷いた。

呉一郎さんは脚立を離れ、
木の中へ潜っていく。
自分はカゴを持ち、彼の真下について回った。
「……この夏蜜柑は
 売り物じゃないんです。
 畑を手伝いに来てくれた人たちに
 お父さんが配っていたんです。
 今年は何も贈れないと思っていたけれど、
 形を変えて、お返しできそうですわ——」


一つ目のカゴがいっぱいになる頃、
婦人に従い台所へ運んだ。
皮を洗い、刻み、
砂糖と一緒に鍋にいれる。
やがて甘い匂いが立ちのぼった。
苦味はほのかに薄められ、
良い思い出として残されていた。


しばらくして庭へ戻ると、
呉一郎さんは二つ目のカゴをいっぱいにしていた。
「上のほうは残しました。
 鳥が楽しみにしているかと思い」
「えぇ、十分です」
「あと一つ……
 緋色様、穫っていただけますか?」
「木登りは、自分にはとても」
「どうかっ」
手を差し伸べられる。
自分はつい、その笑顔に吸い寄せられてしまった。

呉一郎さんの掌は厚い。
けれど、綿のように柔らかい。
指の深い皺はしっとりとして、
握ったものを滑らせない。
自分にもこんな力強さがあったなら、
もっと、行ける場所や見える世界もあったのだろうか。
そんなことを考えて、
同時に、この人がそばにいてくれて良かったと思う。

彼の手を借り、難なく木へ移る。
そうして枝葉をかき分けた先に、
目映い景色が広がった。


——富士山の麓を覆う、
丹沢と箱根の山々。
湘南と小田原を区切る、曽我丘陵。
遠くには、幼い頃から慣れ親しんだ相模湾。
それら全てが、同じ目線の高さにある。

ここ二宮町に立つ蜜柑の木は、
誰より早く、季節の移ろいに気づける場所だった。

自分は蜜柑を一つ取り、
頭上の太陽に重ねた——




夕暮れの海沿いを走る。
呉一郎さんは後写鏡に映る夕日に
マーマレードの瓶を重ね、
中で乱反射する光を眺めていた。
そのうち静かな寝息が聞こえてくる。
やはり車は便利だ。
自分は一人、新たな責任感を背負い込んだ。



藤沢に着く頃には
すっかり夜になっていた。
探偵社には明かりが灯っている。
しかし、呉一郎さんが降りてくれる気配がない。
「……呉一郎さん?」
「わたくしは、ここにおります」
「会ってほしい人がいるんです」
「わたくしのような者が……」
「いつもあなたのことを話しています。
 もう他人ではありませんし、
 今更形式張る必要も……」
呉一郎さんはそれきり項垂れた。
ポロシャツの短い袖を撫で、
なんだかみるみる萎んでいく。
「……すみません。勝手に事を進めてしまいました」
「お、お会いしたい気持ちはあります。
 ただ、わたくしに、勇気がないだけで……」

コンコンと、窓を叩かれる。
自分らは慌てて外へ出た。

待ち構えていたのは新木場さんだった。
「二人ともお帰りなさい。
 おつかいありがとうございます」
「遅くなりました」
「何か困り事でも?
 車の音が聞こえたのに、
 いつまでも降りて来ないから……」
「いえ……」
ふと、呉一郎さんを横目に見れば、
彼は驚いた様子で背筋を伸ばしていた。

「空港の、林檎売りさん……!?」

「おや君は。
 落とし物を拾ってくれた、
 親切な彼じゃありませんか」
「……何やってるんですか」
「偶然ですよ?」
「は、初めまして!
 わ、わた、わたくし、船野呉一郎と申します!」
「初めまして。緋色の父です」



探偵社は職場兼、父の自宅でもある。
住居部分へ上がるのは自分も久しぶりだった。
懐かしい机には、
懐かしい椅子が二脚と、
新しい椅子が一脚。
呉一郎さんのために揃えたのだろう。
父はカゴの中の野菜を、物珍しそうに眺めた。
やはり、目的の品は……。
「お義父様、こちらもどうぞ」
「これは……」
「夏蜜柑のマーマレードです。
 木に残っていた実で作ったんです」
父は瓶を受け取り、
電球にかざす。
沈んでいた蜜柑の粒がゆっくりと動いた。
「……綺麗な黄金色ですね。
 たくさんの人に見つめられて、
 たくさんの時間に磨かれてきた色だ」
そう言ってほんの少し、
懐かしそうに笑った。
「さぁ。
 いただいた食材で、
 夕食にしましょう——」




お盆の二日間はあっという間だった。
気づけば夕方になり、帰りの飛行機が迫る。

見送りの際、
父は紙袋を差し出した。
「呉一郎君。お土産です」
ハトサブローの大きな缶、
それも50羽ほど集まった大所帯だ。
太い熨斗を巻かれ、贈呈品めいている。
「君のご家族によろしくお伝えください。
 直接のご挨拶も遠くないうちに」
「わ……わたくしの家族は、どこにも……」
呉一郎さんは途端に物怖じした。
自分にも、ハトサブローにさえも。
父の微笑みは、呉一郎さんだけに向けられたものではなかった。
それに気づいた彼は目を潤ませ、
ひしと、紙袋を握りしめた。
「お待ちしております……!」
「えぇ」
「……でも、いいんですか。
 自分だけ一週間も休暇をもらってしまって」
「今日から僕の仕事が忙しくなるのでね」
「それなら、なおさら」
「警察と連携する仕事なんです。
 5、6人、検挙したい方がいまして……」
「…………」
「余計な心配はしないこと!
 ほぅら、行っておいで!」


背を押され、
半ば追い払われる形で送られた。

飛行機の座席に着くと、
呉一郎さんは気恥ずかしそうに指を揉んだ。
「……それにしても、まさか林檎を落とした方が
 お義父様だったなんて。
 このような偶然、あるのですね」
「わざとですよ」
「!?」
「わざとあなたの前に現れて、物を落としたんです」
「わ、わたくしは何か、
 お義父様に試されていたのでしょうか…!?」
「単にあなたに会いたかったんだと思います。
 あなたが遠慮して、
 会えない可能性もありましたから」
「申し訳ございません……」
「呉一郎さん。踏み出してくれて、
 ありがとうございます」
「いいえ……皆様がくださった勇気です」
呉一郎さんは膝元で缶を開け、
ハトサブローを数えた。
「これは父と母と妹の分。
 それと役場の方、畑の方、お隣の方」
「あなたのご家族は、50枚では足りませんね」


呉一郎さんは涙を湛えながら、
愛おしそうに、ハトサブローを名付けていった。

夕日は眩しく照っている。
今日のマーマレードのような、
黄金色の空だった——




「湘南十景 -空-」1956.船野ルート

 

トップページへ戻る

bottom of page