「ごめんくだせぇー」
民宿の廊下に明君の気怠い声が吹き抜ける。
返事を求めた投げかけはもう何度目か。それもしーんと虚しく溶けた。
廊下の先は裏庭へと続いていて、
半開きのドアが海風に軋んで揺れていた。
「出かけちゃったのかな」
「みてぇだなぁ…」
慌てたせいでドアを閉め忘れた……というよりは、
出かけていますという伝言のように思える。
明君は物臭そうに頭を掻いた。
僕たちは江ノ島に来ていた。
江ノ島は湘南海岸と陸続きになっている小さな島だ。
島の玄関口は宿やお土産屋さんなどが立ち並び、観光地として発展している。
この民宿はそんな賑わいを離れた、島の奥地にひっそりと佇んでいた。
夏ともなると湘南の海水浴場は大盛況で、
海の家も宿も空きがなかった。
海で泳ぐには財布や荷物を預ける場所が必要だ、
そうした場所を探し求めるうちに、僕たちはこの「穴場」まで来てしまったというわけだった。
今は夕方。
昼間は女将さんが受付にいたけれど、座布団がくぼみを残してそこにあるだけ。
預けた鍵を返してもらわないと部屋に入れない……。
明君は腕組みをして、不機嫌な仁王立ちで裏戸を睨んでいる。
彼が意地を張る時によくする姿勢だ。
僕はそんな彼から一歩下がり、暇つぶしと思って玄関を散策した。
間口にはブリキの長椅子があり、
待つ人はここに座るんだろう。
つまりはこんなことしょっちゅうなんだ。
椅子の塗装のすり減りに、これまで待たされた人影を見たような気がした。
木造の古い建物なのに、玄関に敷き詰められたタイルは黄や白や水色と鮮やかだ。
受付台には洋風の石工人形と造花が飾られ、
女将さんの可愛らしい趣味が感じられる。
無表情で、口数の少ないおばあちゃんだったけど。こんな一面もあるんだなぁ。
「……?」
僕はふと、その受付台に吸い寄せられた。
人形の足元にそれらと属さない鍵が置かれている。
「あっ」
108と彫られたアクリルのストラップ。
その煩悩の数字は僕たちが最初に案内された部屋番号だった。
「鍵置いてあるよ」
「!?」
ぎょっと僕の方を見て、それからまじまじ顔を近づける。
すぐさまギリリと歯軋りをした。
「いい加減だなおい!」
「何時に戻るか言ってなかったから。置いといてくれたんだ」
「くれたんだ、じゃねぇって……」
昼から従業員の気配はなく、
こんな山奥で一人、女将さんは宿を切り盛りしているようだった。
誰にだって急な用事はあるだろうし、思い立つことだってある。留守にしてしまうのも仕方ない。
こういう時はお客さんも協力しなくちゃいけない。
「でもこれで部屋に入れるね」
僕が諫めたら、明君は文句を突き出した唇を引っ込めた。
明君のイライラの根源は早く部屋に入りたいだけだから、
これでチャラになったんだ。
部屋は建物の一番端にある。
「もう5時なのに、まだ明るいね」
「しっかり夏だな」
明君は参ったようにそう言って、シャツの襟元をはためかせた。
海の家で個室の洗い場を借りたけど、
待つ人が多くてそう長くはいられず、
僕たちは潮を流しきれないまま帰ってきてしまった。
「…早くシャワー浴びたいな」
…そのせいか、汗ばむと余計に体の匂いが気になる。
明君は鼻がいいから、僕の匂いを嫌に思ってないといいけど……。
…なんだか会話が途切れてしまった。
部屋の前につき、僕が鍵を開ける。
聴き慣れた音と鍵の手応えに僕は思った。
ここ、ハルディンとおんなじドアなんだ。
「……」
ふと影が伸びた気がして真横を見たら、
明君は真面目な顔をして直立していた。
おんなじドアの音を聞き、おんなじコトを思ったんだろう。
ただ彼はハルディンからさらに連想を膨らませたようだった。
…僕は急に恥ずかしくなって、
手元を慌てさせながら、突き飛ばすように扉を開けた。
部屋は縦長の六畳間で、
窓辺には低い机と椅子が二脚ある。
西向きの窓の外には傾いた日が見えた。
差し出された彼の掌に僕は鍵を乗っける。
彼は新品のビーチサンダルをずさんに放って、
どすどすと部屋奥へ向かった。
窓辺の机には灰皿がある。
僕がタバコの匂いが嫌いなのを気遣って、部屋の隅に隠してくれる。
明君は当たり前にそうしてくれたあと、大きな背中をかがめて金庫に取り付いた。
…実はここへ帰るまで、明君はずっと心配していることがあった。
金庫から財布を取り出すと、中のお金が無事だったことに安堵する。
「はぁ〜……」
「心配しすぎだよ」
「だってこの宿なんっか怪しい……」
昼間すれ違ったお客さんたちは、なぜだかこそこそとしていた。
明君は常に宿の治安を案じていて、
楽しそうに泳いでいたかと思えば急にいぶかしい顔をして江ノ島を睨んだものだった。
その度に鎮めていたのは僕だ。
「怪しい人がいたら、女将さんが注意してくれるよ」
「女将は100超えてそうだしもう〜」
無事だったんだから。これからも大丈夫ってことだよ。
僕は椅子に座った。
竹細工の、背もたれが緩やかな椅子だ。
窓をちょっとだけ開けたら、波音が大きく聞こえて。海をまた近くに感じた。
明君も金庫を離れ、疲れた体を椅子に預ける。
膝に肩肘つくと前屈みになって、気恥ずかしそうな笑顔を浮かべていた。
君にはちょっと小さすぎる椅子かもしれない。
「やっと落ち着けたね」
「おぉー……」
僕は目を瞑る。
椅子にもたれたら途端にふわふわとした心地になって、
足の裏に柔らかい砂の感触を思い出した。
……夏場の海岸の人混みは、想像以上のものだった。
波打ち際では恋人たちが水かけあい、
砂浜には親子が砂で城を作っていた。三日月形の海岸に、夏休みの縮図が広がっていた。
とてもじゃないけど泳ぎを練習できそうになく、
人気の少ない遠浅まで泳ごうと、明君は提案してくれたんだけど……。
僕、全然泳げなかった。
そもそも水に浮かなかった。
明君は何度も「鉄か?」「足に鉄入れてる?」と聞いてきたけど、
そんな人体改造した記憶ない。
僕が思うに、柔道で体幹を鍛えすぎたせいで、
重心を足に置く癖ができてしまったんだと思う。
…結局僕は浮き輪をかぶせられ、遠浅までひっぱってもらったんだった。
「ぷかぷか浮いてる正ちゃん。可愛かったなぁ」
僕は目覚める。
明君は目を瞑り、
美味しいものを食べた時のような、甘ったるい顔をしていた。
「可愛かっ…ったぁ……」
「やだな」
「生まれたてのクラゲとおんなじくらい、可愛かった」
「褒めてないよ」
泳げなくて可愛い、なんてさ。
明君は僕のために青空水泳教室を開いてくれた。
生徒は僕一人、椅子は浮き輪だ。
遠浅で浮き輪をしている大人なんていないから、
達者な小学生たちが物珍しそうに僕の近くを通り過ぎたりした。
…恥ずかしかった。
明君はすいすい泳げて、なんだか海の人みたいだった。
いつもと違う君が、いつものように微笑んでくれるのが不思議で。夢みたいで。
君の故郷に連れて来てもらえたような気がして、嬉しかったんだ。
「泳げなかったけど。楽しかった」
僕がそう言うと、
明君は薄目を開けて、それからにやっと八重歯を見せる。
「なら、来てよかったわ」
練習に夢中で、顔をずっと強ばらせていたけど、
こうして思うと楽しかったって感慨の方が大きいんだ。
「いつか君くらい泳げるかな」
「練習すりゃあな」
「明君も最初はそうだった?」
「あーいや…」
目まで綺麗に泳がせて、明君は苦笑する。
「君は器用でいいなぁ」
「正ちゃんが下手すぎっていうか……ぁ」
ついに本音を漏らされる。
…やっぱり泳げない理由は柔道云々じゃなくて、
器量の問題なのかもしれない。
僕は窓の外に目を向けて、眩しい海を眺めた。
「明日も休みだから、また少し泳ぎたい。
…まずは浮き輪なしで浮けるようにならなきゃだけど」
「そんなに泳げるようになりてぇんだ」
明君の目を見て、僕は「うん」と大きくうなづいた。
泳ぎの達人である明君に、クラゲの僕が泳ぎたいと話すのは照れくさい。
……今はまだ全然だめでも、
絶対泳げるようになるんだ。
「理由、教えてくんねぇの?」
「うん」
「え〜えへへ〜なんでェ〜」
「内緒」
でろでろに溶けた明君の笑い声。
気持ち悪くて大好きだ。
その笑顔をずっと見ていたいけど…。
「…シャワー、浴びてくるね」
僕は目を伏せる。
クローゼットから浴衣とタオルを借りて、
小走りに部屋を出た。
…泳げるようになりたい理由は、
「楽しそう」だからってだけじゃないんだ。
別の「本音」が泳ぎたい理由のほとんどを占めている。
でも今のままでは笑い話になってしまいそうだから、
明君にはまだ話さないでおく。
泳げるようになったその時、話したいと思う。
シャワー室は受付の隣にあった。
受付には女将さんが帰ってきていた。
明君の言う通り、90〜100歳はありそうな小さなお婆さんだ。
血色もよく、体もふくよかで健康そう。
ただ眠気には勝てないのか、こっくりと首を揺らしていた。
僕の足音に気がつくと女将さんは会釈する。
「コンドーム。布団の上にありますよ」
「ありがとうございます」
シャワー室は男女共用だった。
使う時は「使用中」というフダを外のドアノブにかける。
入り口は2畳ほどで、その隣に一人用のシャワー室がある。
シャワーは最初に水が出た。
肩がピリピリと痛い。
けれどシャワーのお湯が熱くなるにつれ、貝が砂を吐くみたいに、僕はポっと口を開いていた。
…気持ちいい。
「……、」
頭上の小窓から夕日が差し込み、時折トンビの影が横切る。
家からたった1時間の距離なのに遠く旅行へ来た気分だ。
一人でも二人でも、こうして宿に泊まるのは初めてだった。
浴衣の感触も、ローブと違ってひんやりしていた。
明君が着たらきっとかっこいいだろうな。
……今頃、明君は何を考えているのかな。
僕はこんなに君のことを考えているんだけど……。
「……、」
ピットリと、身体と頬を壁にくっつけた。
ヘッドを両手で掴んでいるせいで、水流はあらぬ方向に飛び散る。
どこを洗うでもなく。
どこを見つめるでもなく。
心は数分前を、文庫であったら25行前に巻き戻した。
「コンドーム。布団の上にありますよ」
……って、どういうこと。
女将さんが僕に言ったあの一言は何だろう。
コンドームって何だろう。
違う、それはわかる。
ちんちんに被せるやつだよ。
僕がわからないのはコンドームが布団の上にある状況だ。
布団の上に置いてあった場合どうなるのかわからない。
…でもそれって、大事で、大変なことなのかもしれない。
見た人が見たら血相を変えてしまう大変なことなのかもしれない。
だから僕に伝えたんだよね、女将さんは。
布団の上に、おそらく襖にしまってある布団の上に、コンドームがありますよって。
「……、」
けど。
思い返すと。
忠告というより探し物のありかを教えるような口調だった。
大変なことを伝えるにしては静かな声だったんだ。
「ありますよ」に、「そういえば」が込められていたような気がする。
「そういえば、コンドームが布団の上にありますよ。サイズが合えば、お使いください」
そんなニュアンスが短い言葉に込められていた気がする。
真っ先に親切心を感じたから、
僕は深く考えずに「ありがとうございます」と頭を下げたんだ。
「……、…」
僕はそもそものことを考えた。
なんで他人に、えっちを推奨されたんだろう?
僕の家に駿太君と藤子さんが泊まることがあっても、
僕は絶対コンドームを渡さない。
恋人だからってするのが当たり前じゃないし、
そういうタイミングは当人たちが決めることだ。
「…!」
…女将さんには、僕たちが恋人に見えたのかな?
それはすごく嬉しい…。
行く先々で兄弟や友達にしか見られたことがないから、すごく嬉しい……。
ましてやえっちを推奨するってことは……いつもシてそうって思われたってことだよね。
それって、僕たちがお似合いに見えたってことでいいのかな……。
「!」
いやっ。いや、いやいや。
なんで嬉しくなってるんだ僕は。
それに全部わかった。
普通じゃないんだこの宿は…!
僕はシャワーを顔に当て、まぶたをきつく閉じる。
そうして記憶を数十分前まで遡らせた。
…確か部屋の扉を開けた時、ハルディンの音がした。
明君はそれを聞いてすぐ背筋を伸ばした。
人間ってあんなにすぐ反応できるものなのだろうか。
もっともっと遡る。
…海岸沿いの宿を当たった時、空室を確認してくれたのは明君だった。
僕がアイスクリームを食べていた、というのもあるけど、
「外で待っててな〜聞いてくるぜ〜」と言って任されてくれたんだ。
けどその前に「アイスクリーム食べたくね?」と提案してくれたのは明君だった。
「……、」
あ……明君。
最初から「連れ込み宿」を探してて、僕には空室がないフリしてたのかな……?
「!!!」
っ僕はブンブンと首を振る。
シャワーを定位置にかけ、おでこを壁にぶつけた。
口の広い排水溝は一瞬で水を吸い込み、
僕の濁った心まで流してくれるようだった。
今のは全部妄想だ。
……女将さんの言葉は、きっと僕の聞き間違えだ。
それも都合の良いように聞こえてしまっただけ。
だって僕は、一段とかっこいい明君にずっとドキドキしていたから…。
「……」
……今日、したい。
ここがそういう場所でも、そういう場所じゃなくても。
男らしい明君の匂いに包んでもらえたら、
どれだけ幸せだろう。
「…、…」
僕は壁に手をつく。
そしてシャワーの水の伝いに沿って、背筋からお尻に指を伸ばした。
……綺麗にしておこう。
目を瞑れば海の音が聞こえて、たくさんの明君の笑顔が浮かんで、
ざわついた心が静かに凪いだ。
部屋に戻ると明君は寝そべっていた。
テレビを見ていたのか肩肘をついたまま寝息を立てている。
夕日の色は濃いのに、
太陽はまだ白く浮かんでいる。
僕はテレビの音量を二つ下げると、泥棒のようにこっそりと横になった。
口を開ければ、ドキドキと心音が漏れてしまいそうになる。
僕は息を飲んで彼の寝顔を見つめていた。
…大きい口と、高い鼻と、切れ長の目。
この全部で僕に微笑みをくれていたと思うと
夢のように思えてしまって、時々つらく、時々苦しくなる。
僕はずりずりと腕の中に忍び込み、おでこを寄せた。
「……、」
…汗と少しの磯の香りがする。
楽しかった昼間の香りだ。
僕は深呼吸をして、胸いっぱいに安心を取り込んだ。
すると頭上でちゅっと軽い音が鳴る。
見上げたら、明君はとろんとした寝起きの笑顔を浮かべていた。
「おかえり」
「うん」
「髪、まだちょっと濡れてるぜ」
「この方が涼しいから」
「風邪ひくよ〜」
「大丈夫。君があったかいから」
「…んじゃ、あっためねぇと」
力強い両腕で、その胸に抱き寄せられる。
明君はごろんと仰向けになると僕を寝そべらせ、
落ちないように腰元を支えてくれた。
…硬い手が僕のお尻に触れる。
どうってことのない不意の接触をきっかけにして、彼への愛おしさが振り切れた。
込み上げるまま明君にキスをしてしまう。
1秒もなく、すぐに唇を離す。
しまったと思った。
僕の「気持ち」が伝わってしまった。
それも性急に、彼にとって脈絡なく。
…僕は本当に誘うのも下手くそだな。
言葉で伝えたらいいのに、体が先に動いてしまうなんて。
「ぁ……」
!
ぃ、痛い。
浴衣越しに、勃ちあがった明君のちんちんを押し付けられる。
ぐりり、と無理やり芯に触れられて。僕の心も熱くなった。
…明君も同じ気持ちでいてくれているんだ。
「正ちゃん。だめ」
「……?」
「それだめ」
明君は口早にそう言う。
ソレと示された腰元を見れば、僕は小さく腰を揺らしていた。
「?」
思わず動きを止めてしまう。
よくよく考えてみるけど、だめな理由が見当つかず、
僕はまた腰を揺り動かした。
「だめだめだめだめだめだめ」
「何が…?」
「この宿、そーゆーとこじゃないだろ?」
「……」
明君は苦笑しながら見渡した。
その視線につられて、僕も部屋を眺める。
…開いた窓の隙間から、爽やかな細波が入り込む。
…かもめの声が、子供の楽しい笑い声に聞こえる。
明君は最後に僕を見て固まっていた。
映像が止まって、音だけ流れる放送事故のような景色だった。
「……、」
最初に動き出したのは僕だった。
……変なことしてごめん、
そんなつもりでもう一度口づける。
謝罪の気持ちを込めて、
今度はえっちな気分じゃない、傷を舐めるようなたった一回の口づけだ。
…僕はやっぱり、色気がないんだ。
浴衣も似合っていないんだ。
思い上がってしまった自分があまりに惨めだ。
…そう、諦めようとしていたのに。
明君はまた僕に向かって硬くした。
それもどんどんと張り詰めていく。
……よかった。本当は嫌じゃないんだ。
僕は嬉しくなり、みっと早く腰を動かした。
重ね合わせてわかる、明君の大きさ。
これが全部入っちゃうなんて、いまだに信じられなかったりする。
「ッダメダメダメダメダメダメ!」
「?」
「普通の宿でしちゃいけねぇのっ」
明君は怒鳴りたいところを、かすれた声でそう叫んだ。
…しちゃ、いけない。
その言葉が遅れ頭に染みて、僕ははっと動きを止めた。
そしてすごく愚かなことをしていると気がついて、
視線のやり場を惑わせた。
「ご、ごめん…。……変なことした」
「……〜」
明君は困り顔のまま僕を抱き寄せる。
胸と胸が触れ合い、鼓動が伝わる。
突き上げるように高鳴る彼の心音に僕は驚いた。
その激しさとは裏腹の優しい声を囁かれる。
「えっちは出来ねぇけど。…こうやってくっついて、今日は寝ような」
「…うん」
「ぅおぉおッだめだめだめだめだめ」
「?」
「腰!ッ動いてンじゃんッ」
「全然、してないよ」
「動いてる動いてる動いてる!」
「ちょっともだめ……?」
「めめめめめ」
僕の肩をど突いて掴むと、転がるようにして真横へ押し倒した。
「メッ……!」
苦しい声を浴びせられる。
悪霊に取り憑かれた人間を救うか僧侶のような、苦渋の声だ。
厳しい顔に僕は一瞬怯む。
けれどそんな顔も一転、僕の乱れた襟元を見て、
明君は顔を真っ赤にした。
耐えがたい鼻息は熱く、僕の胸に吹き下ろされる。
僕は顔を背けて彼に無防備な首元を晒した。
「浴衣、着たよ」
「……!!」
「こういうの……初めてだね」
「そ、…そうだな」
「初めてなのに…。……何も言ってくれない」
「っ可愛すぎて直視できねぇの……」
僕は嬉しくて明君を見た。
その目が困っている、他でもない僕が困らせている。
……僕は最低だ。
しちゃいけないって状況に、余計に落ち着かなくなっている。
「声、絶対出さないから」
「…!」
「少しでも僕が変な声出したら……止めていいから」
明君の力が弱まる。
僕は自由になった手を伸ばし、壁際のティッシュ箱を取ろうとした。
と、届かない。
戸惑っていると、明君はおずおずと箱を取り、手渡してくれる。
…明君はやっぱり優しい。
僕は熱くなった顔を箱で隠した。
「…ティッシュ箱、だよ」
「ティッシュ箱、だ……」
「いっぱい入ってる」
「いっぱい……」
「これ、いっぱい敷けばいいよ」
「いっぱい、……敷く……?」
疑問符をいっぱい浮かべられる。
熱い、恥ずかしい。
答えないといけないのかな…。
自分の上気で息苦しくなり、僕は息継ぎするようにティッシュ箱をのけた。
「こぼさないよう、ティッシュいっぱい敷こう…?」
いっぱい、と音もなく明君の唇が動く。
「君いつも、いっぱい出して……いっぱい溢れちゃうから」
君の量、すごいんだ。
できるだけ長く中で留めておきたいのに、指で押さえても溢れてくるほど。
また部屋を汚さないように、
ティッシュをいっぱい敷かないと……って。
「正ちゃん」
君はずっと真剣な眼差しだった。
「そんなに可愛くてよ、よく今まで生きてこられたな」
「…そこまで言うんだ」
するとティッシュ箱取られ、壁際に滑らされる。
僕の手の届かない位置に置かれてしまう。
驚いて明君を見れば、
いつの間にか強張った表情は解け、意地悪な笑みを浮かべていた。
「俺だって正ちゃんからの誘い、断りたかねぇよ。
…けど。えっちするなら、ちゃんとした綺麗なとこでな」
明君の言うちゃんとした場所は……きっとホテルや家のこと。
「綺麗にしねぇと、正ちゃんの大事なところにゃさわれねぇよ」
「…汚くないよ」
「手はよぉく洗ってきたが。髪も体も磯くせぇだろ」
「シャワー浴びて来て、」
「いや〜めんどいなぁ〜」
それは意地悪なんかじゃなく、優しい慰めの言葉だった。
自分は綺麗じゃないから、触れられないと言う。
ここから先はしてあげられないって、優しくバッテンを掲げられる。
……僕の目はぐるぐると渦巻いた。
我慢って、どうやるんだっけ。
今まで僕が求めたら明君は必ず応じてくれた。
その逆に、明君に求められて僕が応じないことはたくさんあった。
そんな夜はシクシク言いながら我慢して、僕を抱きしめて眠るんだ。
……我慢がこんなにも苦しいなんて思わなかった。
また女将さんの言葉が聞こえる。
「コンドーム。布団の上にありますよ」
そうと言っていなくても、女将さんは確かに何か呟いたんだ。
「金剛寺。伏見野上にありますよ」
そう、日本の寺院を教えてくれただけかもしれない。
ここではえっちしちゃいけないんだ。
…我慢、我慢しないと。
「…僕は綺麗にしたよ」
我慢。
「おしりも洗った」
「!!!」
「……」
我慢しなきゃって思っているのに、止まらない。
「…指だけ貸して。
指だけで、我慢するから……」
「正ちゃん…」
首に手を回して、精一杯身体を引き寄せる。
「自分でも変なこと言ってるって、わかってる。でも……
お願い、」
明君の先っぽが膨らんで、
僕の先っぽにぶつかる。突然の甘い痛みに声を漏らしてしまった。
…声だけはこらえなきゃ。
声を出さないで床も汚さなければ、
ちんちん挿れてもシたことにはならないはず。
明君の唇を見つめて顎を上げ、口づけを求めた。
君の体はこんなに正直なんだ、
口を覆ってしまえば君ももう言い訳を話す必要はなくなるのに……。
「!」
突然胴を掴まれたと思うと抱き起こされる。
あぐらをかいた膝の上に乗せられていた。
「後ろ向いて」
明君は笑っていた。
「ここ、座って」
「……、」
僕は足を片側に束ね、後ろ向きになる。
そうしてあぐらの中に座り込むと、彼にすっぽりと抱きしめられた。
包んでいくれる身体が熱い。
お尻と背中の真ん中に、一際じっとりとした熱を感じる。
「めちゃくちゃ勃ってんの、わかる?」
「…うん」
「挿れてぇのもわかる?」
「うん」
「俺も我慢すっから。……正ちゃんも手だけで、我慢してな」
…僕は無言でうなづいた。
それを見てから、明君の右手が太ももを這う。
左手は僕の帯を緩め、裾を広げる。
……勃ち上がったそれを暴いたのに、明君は触れてくれない。
さっきまで緩やかだった動きを止めて、茫然としている。
パンツも履かないで来たこと、驚いているんだ。
僕はまた恥ずかしくなった。
「だって……すぐしてくれると思ったから…」
「心外だなぁ、」
声は呆れているのに、押し付ける熱がもっと膨らむ。
「足、開いて」
…僕は喘ぎを漏らさないよう、喉の奥でうなづいた。
上擦った声に明君はニヤけると、今度ははっきりと意地悪な手つきでくすぐった。
「……!」
指の先をゆらゆら動かして裏側を愛撫する。
もどかしくも心地いい刺激に反応して、皮膚が引きつり、先っぽが顔を出す。
僕は皮膚の面積が少し多いから、綺麗に洗うには勃たせないといけない。
…シャワー室で君の顔を思い浮かべて、
君の手つきを思い出して、念入りに洗ったんだ。
触っても嫌じゃないって思ってもらえるように、丁寧に。
本物の明君の手つきはなまめかしく、
ばらけた指が予想もつかない動きをする。
…もっと触って欲しくて、腰を浮かしてしまいそうになる。
僕は目と口を閉じ、明君の服を握った。
「はっ…、…」
声を漏らしたら、きっと止められてしまう。
我慢、我慢しないと……。
「…ぁ……っ」
左手が胸の先を撫でる。
思わず明君の顔を見れば、
楽しそうな八重歯を覗かせた。
「いつもよりエロ」
「……!」
僕が必死になって息を殺してるのに。
明君はわざと先走りをあわだてて、いやらしい水音を立てる。
「…ちんこ挿れてくれるなら、今は誰でもいい?」
「…!!」
「なんでエロい気分になってるか、知ってるぜ」
視線が交わる。
僕は動揺と目前の快楽に戸惑い、言葉を返せない。
…乳首を摘まれ、ゆっくりと引っ張られる。
僕は声を殺しきれずに、か細く長い吐息をこぼした。
「俺がいねぇ間、声かけられてたな」
追い詰めるような低い声。
なのに上機嫌を装っている…。
「いかにもタチですって野郎にしつこくさ」
「っ道、……聞かれただけ……」
中休みに浜へ上がった時、明君は僕のためにかき氷を買いに行ってくれた。
日陰で待っていた僕に声をかけた人がいた。
「桟橋の場所、…知りたいって……」
「俺が戻らなかったら、ついてって教える気だったろ」
下心は少し感じた、
だけど本当に困っているなら教えるつもりだった。
僕のだんまりに、明君は右手を早める。
「……、…!」
「今頃あいつの頭ン中じゃ。正ちゃんぐちゃぐちゃに犯されてるぜ」
明君の言葉通りの擬音が部屋に響く。
「そんなっ、こと……っ」
「……もうちょい自覚してくれ」
「…なら一人にしないでよ……。
君が一人にしたからいけないんじゃないかぁ……」
僕も一緒に行くって言っても、君は「待ってて」ばかりだ。
かっこつけているわけじゃないって、わかっているけど。
なんでも引き受けてしまう忙しい君にため息つくこともある。
そんな時、君はそばにいないんだ。
「あの人くらいなら、背負い投げられるよ……柔道やってたから……」
だから、ついて行っても平気だと思ったんだ。
それに……。
「君だって簡単に投げ飛ばせるんだよ。
……けどそうしないのは、君が好きだからだよ」
「正ちゃん…」
変な目で見られたから、こんな気分になったんじゃない。
君が僕を守ろうとしてくれて、
君が……。
「君が優しくしてくれるから……」
僕は先の言葉をつぐんだ。
明君の手を掴んで、剥がそうと力を込める。
……もういい。
僕はふてくされたように呟いた。
するとうつむいた僕の頬に彼は唇を寄せた。
あんな八つ当たりをしたくせに、自分だけ笑っている。
鼻先にその微笑を押し付けられて、謝る気持ちを感じた。
僕はまたうつむき、一本一本明君の指を剥がそうとした。
なのに……。
「っやめて……!」
無理やり手淫を早められる。
今度の手つきは先ほどとは違い、中の熱を絞り出そうときつく絞る。
「…!」
…こんなの、知らない。
擦るごとに手の側面を下腹部に打ち付けられ、
水音と相まって恥ずかしい音が鳴る。
「これ、全部正ちゃんの音だぜ」
微笑を耳に吹き込まれ、びくんと体が震えた。
「…っ……ぃ…!」
「イっていいよ」
「てぃっ…しゅ……」
「俺の手に出せば」
左の掌が先っぽを覆う。
擦られて、包まれて、快さをどこにも逃しきれない。
僕は両腕を上げ、明君の首や髪を掴んだ。
「…っあ、明、君っ…!」
「声、ちょっと大きいかもよ」
「ぁ……きらくんっ、ぁきらくん、……」
「……正ちゃん、愛してんぜ」
その声が何より優しくて、
僕は濃い先走りを溢してしまった。
体の底へ流れてしまうと、彼の指先はそれを追うようにして伸ばされる。
「!!」
露を掬おうと曲がった指が、僕の一番触れて欲しかった場所に沈み込む。
第一関節もない、ほんの少しの挿入なのに。
明君の全部を一度に含んでしまったくらいの心地が突き上がった。
「〜っ……!!!」
喉奥で明君の名前を呼びながら、
僕は達してしまったのだった。
…息が荒れる。
逸らした胸が、呼吸と鼓動で上下する。
明君の大きな手に、僕は真っ白な熱を出してしまった。
……視界が滲む。
出し切れば頭も冷えると思ったのに、
僕は体を疼かせたままだった。
「ごめん、明君……」
「……、」
「いつも我慢したことなかったから……。すごい、したい」
惨めなあまり、僕は泣きそうになっていた。
「声出さないから」
「…、…」
「…もっと触って欲しい」
指じゃ届かない、君にしか触れられない場所に……。
「…貸して。……ちんちんだけ」
「ち、ちんちん…」
「耐えられない……」
「…耐えられねぇとどうなんの」
「……、……」
「……」
僕は考えた。
君も僕と同じくらい、「耐えられない」って気持ちになる返答……。
「……代わりの「明君」、探しちゃうかも」
君に最後までしてもらえないのなら、
僕は「明君」を探して、挿れてしまうかも。
島の入り口にあるお土産屋さんにおもちゃの刀が売っていた。
ビニール製で、浮き輪と同じく呼気で膨らませるタイプのそれだ。
今思えばあの柄がちょうど君くらいの大きさで、それこそ僕にちょうどいいかもしれない。
明君は黙った。
左手を握り込めると、右手では乱れた僕の裾を直す。
あぐらを解いて立ち上がった拍子に、
僕は前のめりにへたり込んだ。
そして大きな背を向ける。
「待っててな〜」なんて思いやりの言葉、今度はなかった。
肩越しに振り返った横顔は、鋭い狂犬の眼光だった。
「シャワー浴びてくっから」
「う、うん」
「最後までするぞ」
そう言い残し、大股で去っていく。
扉が閉まると一切の足音が消えなくなって、
磯波とトンビの高鳴きがどこかうら寂しく響いた。
……あの目は。
よく小林君に向けられる目だ。
今まで僕に向けられたことのない、怒っている目だ。
…僕は明君に勘違いさせてしまったかもしれない。
僕の言う、代わりの「明君」は
「無機物」であり「有機物」じゃない。
…ひどい勘違いをさせて、いらない嫉妬を抱かせてしまったんだ。
「……!」
そっか。
…これから僕、えっちしちゃうんだ。
どうあれ胸が高鳴る。
僕は吊り上げられたように立ち上がり、
乱れた浴衣を慌てて整えた。
壁際やドアの前を行ったり来たり、ぐるぐると歩き回る。
そ、そうだ。
ティッシュを手の届くところに置かないと。いっぱい出るだろうから……。
窓も閉めないと。トンビの声が聞こえると気抜けて恥ずかしいから…。
それと、それに……。
「……、」
僕は怖いものを見るように、襖を振り返った。
布団も、敷いたほうがいいよね。
畳を汚してしまっては取り返しがつかないから。
布団なら、万一汚してしまっても僕が洗えばいい。
布団を敷くためには、布団の有無を確認しないと……。
傾いた影法師が襖にかかる。
僕は固い息を飲む。
それからゆっくりと、襖を開いた。
押入れは二段で、下段は冬用のストーブがある。
上段には枕が二つと敷布団と掛け布団が一対。
その真っ白な世界に、紫の四角い袋が置いてあった。
それは押入れの暗闇の中で鮮やかに輝いている。
日本的な紫ではなく、
角度によって金や銀にも見える光沢のあるパープルだった。
袋は三つ連なっている。
触れば中にぐにぐにとした感触があった。
これは、その……コンドームだ。
……女将さんの言葉は、聞き間違えじゃなかったんだ。
どうりでお客さんがコソコソしているわけだ。
どうりでドアがハルディンと同じ作りの防音扉なわけだ。
全てはここが、連れ込み宿であるせいなんだ。
僕はゴムを持ち窓辺へ向かった。
明君が床へ置いた灰皿のその下に、僕はそれを隠した。
金庫が影になり、入り口からは死角になる。
僕は何事もなかったように布団を敷いて、その真ん中に座った。
ドアに背を向け、ただ夕空を眺めているふうにも見えるように。
…ゴムを見なかったことにしたのは、明君に使って欲しくないからだった。
僕は今更このような不行状を悪びれたりはしない。
いつもラブホテルに来て最初にすることは、明君に内緒で備品のゴムを隠すことだった。
ノックもなく、ドアが開く。
僕は平然と出迎えるつもりがなんだか緊張してしまい、
ロボットのようにぎこちない動きで振り返る。
立ちすくむ明君は、浴衣をうまく着れていなかった。
開いた襟元と、緩んだ結び目の帯。
だけど背の高い君がそうすると、
着崩れすら着こなしている風に見える。
息が少し荒れているのは、ここまで駆けて来てくれたせいだろう。
その唇があどけなく震える。
「ピカピカに、してきました」
「うん」
「…触って、いいすか」
君が泥だらけで帰ってきても、触りたいって言ってくれたら、
僕は全部を差し出せる。
「いいよ」
僕は浴衣を肩まで開いた。
これは、両手を伸ばし、飛び込んで来てと言うような心持ちだった。
夕闇が迫り僕の影が部屋に伸びる。
布団に寝そべった僕に、明君は覆いかぶさった。
「……浴衣。見慣れないね」
「いつもローブだもんな」
「…うん」
引き合いにハルディンを出されて、僕は不明瞭に答えた。
ここが「連れ込み宿」だって知らないふりをするのは、
またゴムを隠したとバレたくないからだ。
…慌て逸らした視線をもう一度明君に向ける。彼はずっと、僕から目を離さないでいた。
「俺の帯、解いて」
ぎこちなくうなづく。
肩にかけていた手を腰元に下ろし、乱雑に結ばれた帯を丁寧に解く。
苦しく巻いたのか、解かれた瞬間にため息のような笑声を漏らした。
…朗らかな笑顔に苦心も陰りもない。僕はつられて笑みを深めた。
「…、」
じゃれあうようだったのに、
明君はふっと真顔の表情に変える。
僕の首筋を食むと、舌を這わせ、襟を開きながら胸の先に留める。
沈み気味の僕の乳首を、ゆっくり吸い上げ舌で掘った。
立たされたそれを犬歯で甘く噛まれ、胸の奥にちくりと痛みが走る。
「っそれだめ……!」
噛んだりしたら……。
「跡つけないで、……明日も泳ぎたい」
「こんなとこにキス跡ついてたら、変なやつが寄ってこないだろ」
「…!」
両手を胴に回される。
弓形に反った僕の胸に顔を寄せ、乳輪ごと口に含んだ。
……きゅうきゅうと、柔らかい唇の中に吸い込まれる。
肩を押して拒絶するのに明君の体はびくともしない。
食べられてしまう、そんな不安すら感じる。
突然解放されたかと思えば、胸の先と周りは濃い桃色に変えられていた。
「へへ」
「……もう、」
最低だよ。
肩を叩いても、そんな小言は響いていない。
僕は肩に腕を回すと軽く引っ張り、「起こして」とお願いしたい。
伸ばした彼の膝の上に座らされる。
「…?」
「動いちゃだめだよ、」
君が優位に動くと今みたいに歯止めが効かなくて、ろくでもないや。
だから今日は、僕が動く。
意地悪に焦らされた分だけ僕もちょっと仕返ししたい、そんな気分もあった。
明君のそれは大きく勃ちあがり、先は艶々と張っている。
ずっと我慢していたせいなのか、目前にした途端唾液が溜まる。
それを飲み下したあと、僕は裾を開いた。
…腰をずらして、底に当てあがう。
……大好きな明君だけど、自分で入れる時はいつも緊張する。
僕は息を止め、目をつぶろうとした。
「目、つぶんねぇで」
「!」
「俺の目見ながら、挿れてくれ」
「…、……」
それが挑発だってわかりながら、
僕は強がって見つめ返した。
……腰を下ろす。
綺麗な円錐の頭に、体の底を広げられていく。
僕は唇をきつくつぐんで声を忍んだ。
「…〜っ」
そんな不安定な僕の体を明君はまたくすぐる。
足の裏をくぼみを撫でられ、僕は背筋を震わせた。
……そんな悪戯っぽい明君のことが、
僕は大好きでたまらなかった。
「明君、っ痛くない……?」
「全然」
明君の真ん中まで咥え込めた。
前戯もなく挿入してしまったから、
彼の先走りが薄くていつもよりきつい。
だけど…。
「きもちーよ」
そう熱っぽく言われて、思わず中を締めてしまった。
「正ちゃんは痛くねぇ?」
「…平気」
だからもっと、試したくなる。
僕は腰を引き、先っぽが抜けるぎりぎりまで浮かせる。
それからまた半分まで落とす。
そんな浅い動きを繰り返した。
「これ、気持ちいいんだ……」
「…!」
「気持ちいい……っ」
擦るごとにぬかるみが泡立ち、ぬるぬると動きが早くなっていく。
底を広げたり縮めたり。
僕は夢中になって体を揺らし、好きなところだけを何度も擦った。
……とても恥ずかしいことをしているような気がする。
明君のちんちんを勝手に借りて、勝手に自慰をしているような滑稽さを感じる。
君はまだ息に余裕があり、
僕一人が、喘いでしまっているから。
…だけど。動き出してしまった腰を止められない。
「声、出していいぜ」
「……、」
僕は首を振った。
すると明君は僕の体に腕を回し、
奥まで腰を落とさせる。
…奥を一気に突き上げられて、目の奥で星が散った。
「っあッ…ぁきらくんっ…!」
「ここも好きじゃん?」
「っ、今だめ……!」
上反りのちんちんが中で揺れて、僕の気持ちいいところを叩く。
「…!…!」
「コンドームどこ隠した?」
「…!」
なんで知ってるの…。
「教えてくんねぇと。中で出しちまうぜ」
僕は驚いたあと、
またすぐに首を振った。
心当たりなんかないって。
「婆さん…、じゃねぇや。女将さんが布団の上にあるって、教えてくれた」
「見て、ない……っ」
「悪りぃなぁ、正ちゃんは…」
どうしても抜いて欲しくなくて、彼の肩口に顔を埋める。
離れてしまわれないようくっつき、
奥で小さく、抽挿を繰り返した。
「君の、大きくて…っ、ひりひりする」
「……正ちゃんの方があちぃよ」
「中に出して…っ」
「……正ちゃん、」
「…っいっぱい……」
指が食い込むほどに、両手でお尻を掴まれる。
ぐっと引き下ろされ、今日の一番深くを触れられた。
そして一番気持ちいい場所を亀頭に抉られる。
彼の肩口を食んで、こらえきれない嬌声に喉を震わせた。
……いって、しまった。
…太い糸のように出た熱が、解けて重く溜まっていく。
どくどくと、君の鼓動で僕の中を埋められていく。
この感覚を知ってしまったら、もう1ミリも離れたくないと思うんだ。
部屋には二人の呼吸音だけが響く。
体は汗ばみ、体に染みていた潮の匂いがまた浮き上がる。
……いつもなら、これでおしまいのはずだ。
「……しょーちゃん?」
明君にべたりともたれ、離れられなくなっていた。
…僕はまだ胸を高鳴らせている。
こんなにわがままを聞いてもらったのに。
たくさん愛してもらったのに。
僕はまだ「やきもき」を抱えていたんだ。
「…また、不安になったんだ」
本当は話すつもりなかった。
今は聞いてほしくて、回す腕に力を込める。
「…みんな君のこと見てた」
「何の話」
明君は優しく聞き返す。
「……海での話」
ぺたんと、僕は腰を動かした。
「!」
しぼんだ明君が抜けないように意識して底を締め、無理やりに「立」たせる。
…「勃」たせるではなく、
柔らかいままで僕の中に閉じ込めた。
明君はそもそも僕の不安に心当たりがないようだった。
「エッ」
「気づいてないんだ」
僕に自覚しろと言ったけど、色んな人に見られていたのは明君のほうだ。
わざと転んだ女の子にもたれかかられたり。
家族写真の画角にこっそり紛れ込まされているのに気がつかなかったり。
…店員さんに、一段高くかき氷を積まれていたり。
そういうの見抜けないのは、
君こそ「かっこいい自覚」が足りないんじゃないか。
……でもそれって、
「…君って、僕のことしか見てないから……」
そんな君の視野の狭さに安心したり、また不安になったりする。
「うごっ、ちょっ、動かさねぇで正ちゃんッ!!」
君の無自覚が僕をヤキモキさせている。
君の言葉を借りるなら、
僕を「いつもよりエロく」させたのは君なんだ。
「しょ、しょっ!」
逃れようとするも力が入らないのか、明君は真後ろに倒れる。
僕は彼のお腹に手をついて、もっと早く腰を振った。
「僕は君のものだから……」
「!??」
「君も僕のものだって、言って」
「俺はずっと正ちゃんのもンだーっ!!!」
明君は叫ぶ。
僕の何十倍もの大声で。
左腕に彫られた「正銘」を見せつけて、
不安や杞憂や、邪悪なものを追い払うように。
「……、」
それに泣きたいほど嬉しくなる。
そしてモヤモヤしていたさっきまでの自分が恥ずかしくなる。
その間も律動は止めない。
「!」
明君はぐっと歯を食いしばった。
「正ちゃんっ…まじで! 抜いて…!」
ふにゃふにゃだったちんちんが、熱くなって芯から勃ち上がっていく。
言葉と体の具合が、完全に反している。
…また、我慢してるんだ。
ここは大丈夫な場所だから、もう我慢しなくていいんだよ。
「ちがうのッデ、出そうッ」
開き直って。
「全部出して」
「たたたっ、多分っこれっ、」
青ざめたり赤らめたり、明君は忙しなく顔色を変える。
僕は意気込むと、律動をさらに早めた。
……僕ばっかり好きな動きをしてごめん。
だから今度は、君の大好きな早さと音でいかせてあげたい。
「!」
君はよく僕の奥につけて、トントントンと一定の間隔で体を打ち付ける。
…結局それも僕の好きな動きだから、図らずもいってしまった。
「…ッ……!!!」
明君は僕の締め付けに、吐息でもない、まるでパンチを受けたような声を漏らした。
実際のドンという衝撃は僕の体の中へと打ち上げられる。
僕は驚き、動きを止めた。
…へろへろと小さくなりながら、
明君は暖かい何かを絞り出す。
勢いがあったのは最初だけ。それからは細く長く、僕の中に注ぎ続けた。
射精されるのとは、違う感覚。
こ、これって……。
僕は重たくなっていく下腹部に手を当て、赤面した。
「明君……」
「……、」
ごめん…。
本当に我慢してたのは、ちがうものだったんだ……。
「おしっこしちゃったんだね…」
「ッちげぇ潮だよ潮っ!」
「潮」って表現、綺麗でいいな。
海に来てるからクジラの潮にかけたのかな。
一瞬愕然としてしまったけれど、僕はなだめるつもりで腰を揺らす。
やっぱり精子とは粘度の違う、浅瀬のような水音がした。
「明君なら……いいよ、また出していいからね。
……出したい時は、いっぱい出して」
明君は粗相をしてから、実はずっと両手で顔を覆っている。
嫌ったりしないって伝えれば、
頭を抱えるみたいにして前髪をかき上げた。
はっきりハの字の眉毛があらわになる。
「君のくれるものなら、汚いと思わないから」
これは、僕からの告白だ。
「ずっと正ちゃんのもンだ」って君が叫んでくれたみたいに、
君も僕に、安心してくれたらいい。
「……!!!」
僕はティッシュ箱を手に取り、明君に笑みを向けた。
いっぱい入ってて本当によかったね、そんなふうな安堵を込めて。
彼はそこから一枚むしり取る。
そして布を扱うみたいに広げると、
苦悶の赤ら顔に覆い被せた。
✴︎
その日僕は「潮」がなんなのか教えてもらった。
隠語ではなく、排泄行為でもない、
性的欲求に関係するものなんだって明君は解説した。
身振り手振りを交えてえっちな話をしているだけなのに、
明君は終始、大事な授業をしているかのような雰囲気出していた。
「……ってことだ。潮はおしっこじゃない。正ちゃんいいか?」
「うん」
「よっしゃ」
「でも、おしっこでもいいよ」
そんな会話を三度繰り返したら、
明君は記憶を消してしまい、行為自体をなかったことにした。
早朝、僕たちは寝静まった宿を後にする。
賑わっていた島の玄関口もシャッターを下ろし、
人の代わりに猫たちが闊歩していた。
江ノ島から海岸へは長い橋を渡る。
左右を海に囲われて、日を遮るものは何もない。
明君はきらめく海面を覗き見て、波の高さを確認する。
僕のほうを振り返り、「ちょっと泳いでから帰るか」と笑った。
海岸は昨日の混雑が嘘かのように静まり返っていた。
波を待つサーファーが点々といるだけで、
それも声が届く距離にはいない。
海は朝焼けを受けて、トパーズ色に輝いていた。
見入っている僕と、珍しくもない様子の明君。
次々に服を脱いで、着込んでいた水着一丁になる。
波が穏やかだったら朝泳ごう、そう提案してくれたのは明君だった。
僕は人目がないか気にしつつ服を脱ぎ、
その間に明君が浮き輪を膨らませる。
ぱんぱんの浮き輪を僕にかぶせると、明君はにかっと笑った。
砂を蹴り上げ、波に飛び込んでいく。
そんな背中を僕は引き留めた。
「荷物、置きっぱなし?」
「誰もいねぇし大丈夫だ!」
明君は肩まで浸り、大きく手を振った。
一人だったら僕は波も踏めていなかっただろう。
明君の後を追う、その名目だったら躊躇いなく海に飛び込めた。
浮き輪がなくてもぎりぎり足のつく場所で、明君は待っていた。
伸ばされた両手を掴めば、僕の重心が分散し、
体が軽々と浮かぶ。
「そうそう! そんでばた足してみ」
「……、」
「膝は曲げんな〜。足をオールだと思って、真っ直ぐ振れ!」
「オールの使い方、知らない…」
「けどうめぇうめぇ! 正ちゃんの成長目まぐるし〜!」
わざとらしいなぁ。
けど僕の根は卑屈だから、大袈裟な褒め言葉がちょうどよく心に響く。
明君は僕の手を握り、重心が傾きそうになるたびに支えてくれる。
おかげでばた足が上手くなる。
明君の体を押して、気づけば遠浅まで来ていた。
「正ちゃん。なんで泳げるようになりてぇの?」
もう手を離しても良い頃合いに、明君はそう問いかけた。
それは僕がずっとはぐらかしていた問いだった。
水面に乱反射した朝の光が、彼の輪郭を優しくぼかす。
夢みたいな海の真ん中で、僕の方から彼の手を離した。
「君、海で溺れたことあるんだってね」
「!」
「この前、サクラちゃんから聞いたんだ」
夏だね、暑いね、なんて他愛ない国際電話の中で、
君の昔話になったんだ。
3歳の頃、明君は波止場から海に落っこちたという。
サクラちゃんはそれを明君の武勇伝として語った。
3歳にして自力で泳いだという肩書きは、
明君本人がサクラちゃんに語って聞かせたものだった。
「怖かったでしょ、」
「……」
落っこちた時、
誰にも助けてもらえなかった時、
二度目の海に、入ろうと思った時。
その時の君の気持ちを考えるだけで僕は息が詰まる。
明君は何か言いかけた口のまま押し黙った。
きっと強がろうとしたんだと思う。
君が強がるのは誰にも心配をかけたくないからだ。
サクラちゃんや両親にそうしたように。
だけど今、僕の前では心細い表情をしていた。
「本当は今も怖いんじゃない?」
「そ、そりゃあ……。…怖ぇよ。ちょっとな」
「だから僕も泳げるようになりたいんだ」
「……、」
「君がまた溺れるようなことがあったとき、助けてあげられるようにさ」
自分で言って自分に笑ってしまった。
釈迦に説法、河童に水練だ。
「クラゲが君を助けたいんだよ」
「……」
「あはは」
「正ちゃん、わりぃ」
「?」
「それロン」
そう言い残し、明君は海に沈む。
笑顔の僕は、一人ぽつんと海に浮かんでいた。
……。
……え?
「明君!!!」
僕は浮き輪をすり抜けて、海の中に自ら落ちる。
朝日のカーテンがたゆたう海中で、
明君は大量の泡を吐き、スローモーションで沈んでいく。
き、気絶してる!
ロンって、ロンした人の勝ちなんじゃなかったっけ。
そしてロンされた僕は負けなんじゃなかったっけ。
麻雀のことはまだわからない。
確かに言えるのは僕たち二人、揃って水難真っ只中ということだ。
「……!」
明君に向かって手を伸ばす。
教わったばた足で沈む君を追いかける。
君の胸に手が届いたとき、手首を掴まれ引き寄せられた。
抱きしめられて、やっと魂胆を思い知る。
明君は笑う。
泳げたなと、大粒の息を吐く。
本気で心配したのにさ、
君の練習方法はスパルタすぎるよ。
だけど僕は無邪気な君を怒れない。
昨日よりもっと明君を好きになっている。……また、こんな朝だった。
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