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サムネイル 3 3.png

僕は垣根の坂道を歩いていた。
砂利は日に熱され、辺りは夢の中のように霞んで見える。
青竹の葉が道の片側に影を作り、歩む人を引き寄せていた。
細く長い、日陰の道だ。
坂の先は炎天に続いている。
下ってきた老君は僕に気がつくと
日陰の内側を譲った。
すれ違いざま、帽子を傾け辞儀をする。
袖が振りあう。
蝉も声色を変え始めた晩夏の事だった。
真昼の前に「一仕事」を終えた僕は、彼の待つ家へと帰っていった。

晩夏は夏の末を指す季語だ。
物悲しい語感の一方で、今日の実際はあまりに暑い。
「一仕事」とは家と郵便ポストとの往復を指す。
散歩程度と侮らず、扇子を持つべきだったと今は思う。

玄関は風を通すために開かれていた。
門をくぐれば共に風が入り込み、
涼やかに風鈴が鳴る。
その音に彼も僕の帰宅を知るだろう。
下駄を揃えて脱ぎ、帽子をかけ。汗ばんだ首筋を袖で拭う。
涼しい顔に整えながら、僕は廊下を渡った。

「ただいま」
「お帰りなさい」

扇子を持つべきだと言ったのは彼だった。
夜美は片目で微笑むと、また視線を手元に落とし、
じっくりとした手つきでハサミに紙を食わせていた。
ちゃぶ台には小さく、正方形に切り取られた紙片が散らばっている。
僕は彼の対面に座り飲みかけの茶をもらった。
溶けた氷の、水の味がした。

僕たちは静かに暮らしている。
僕は詩を書き、それを雑誌の片隅に載せてもらい、少しの金をもらっている。
先ほど出たのはポストに原稿を投函するためだ。
「ご反応はいかがですか」
「催促が来るあたり、気に入られているのだろう」
「そうですか。喜ばしいですね」
「…どうだかな」
「立派な事じゃないですか」
「侘しい男の心情を物見されているだけだ」
「あなたの言葉に誰かが救われているかもしれないと思うと、自分は嬉しいです」
「……」
「それで。自分にはいつ読ませてくれるんです?」
夜美の視線は変わらず手元だ。
僕は眩しい夏の庭に目を向けて、遠くに蝉の声と、近くにハサミの音を聞いていた。
「いつも言っているだろう。君への言葉をそのまま、詩にしているだけだと」
「なら読ませてくれたっていいじゃないですか」
「……」
ふと見れば、夜美は手を止め。目を細くしてこちらに微笑んでいた。
彼はたびたび僕をからかう。
いたずらに触れては僕の声を詰まらせて、窒息する様を楽しんでいるのだ。
「言葉は魚で、詩は化石だ」
「化石、好きですよ」
「言葉は化石で、詩は土だ」
「土も好きです」
「冷やかさないでくれ。……思いついた時にしか聞いて欲しくない」
彼はハサミを置くと、笑いながら廊下へ出た。
「暑かったでしょう」と、足音は台所に向かって行った。
僕は夜美の代わりにハサミを持ち、
彼がしていたように紙を切り取った。
1点、2点と描かれたその紙片はピースマークと呼ばれるものだ。
食品や生活用品の梱包に印字されている。
夜美がなぜこんなものを集め始めたかはわからないが、
暇つぶしにはちょうどいい。

「太郎さんたちからお中元が届いたんです」

夜美が台所から声を張る。
同時に栓の抜ける音がした。
「十郎の大好きなオレンジジュースですよ」
「初耳だ」
僕たちの平穏を知るのは叔父さんと叔母さんだけ。
彼らは青山に住み、この家に寄ることはない。
近くで寄り添う事が僕にとって情けでないことを、知ってくれているのだ。
戻ってきた夜美は円柱のグラスを二つ置いた。
懐かしい。
子供の頃、叔父さんが僕たちにこうしてくれたことを今、思い出した。
「切り終わったぞ」
「ありがとうございます」
「集めてどうする」
「成城小に送るんです。正門前にボックスがあって、近隣から募っているんですよ」
人差し指で1点のマークを押さえ、机の上を滑らせる。
そのようにして散らばった紙を点数ごとに並べ始めた。
1点が集まって10点になると、くぅっと喜ぶ。
「点数によって設備と交換できるらしく。学校の扇風機やヒーターになるそうです」
「そうか」
「ヒーロー活動というわけです!」
「……は、」
思わず吹き出してしまう。
僕が目を伏せた一瞬に、夜美は顔を雑誌で隠した。
その雑誌こそ僕が寄稿している女性ナインだ。
「……」
「花火特集でした」
「……そうか」
「今夜、たまがわで花火の打ち上げがあるそうです」
「……」
「行ってみませんか?」
「遠い」
「近くの神社から眺めましょう」
グラスの中で氷が崩れる。
僕がため息でうなづけば、夜美は雑誌を下ろし。三日月のような目をのぞかせた。


   光の点綴


「懐かしいですね」

以前この縁日へ来たことがあった。
まだ君が歩けない頃だったか。
花火の音を気にする君を背負い、僕は家を抜け出したのだった。
君は落ちまいと僕の服を掴みながら、
祭りの喧騒と花火の空振に目を丸くしていた。

そんな君が今や、僕の手助けなしで隣に立っている。
「自分の浴衣、着崩れてませんか?」
「問題ない。似合っている」
「ありがとうございます」
サイレンのためにあるスピーカーが、今日は祭りの歌を歌う。
君を連れ出したあの日の僕は、祭りに解け合うことができなかった。
君が「行きたい」と指差す方向に背を向け、
行きよりも早い足取りで帰路を駆けたのだった。

夜美はからからと階段を行く。
僕はその後ろを走るでもなく、追いかけた。

境内には夜店が立ち並んでいた。
浮き足立った人々がひしめき合っている。
「宇宙船に見えた」

「?」
提灯の明かりが船窓に。
古い音頭は宇宙語に。

初めから君がこの世のものでないとわかっていたから。
「君を連れ帰る船に見えたんだ」
住宅街の高台にこの神社はある。
夕闇に浮かび上がる祭り場の灯りが恐ろしく、僕は近寄れなかったのだ。
そんな真実を打ち明けた今、
夜美は両手で口元を隠し、音なく笑っていた。
「自分の同胞はそんなに優しくありません」
「……、」
知る由もない。
「便りがなければ死んだと見做され。その星は自分たちに適さない環境だと判断されます」
「代わりの者は…。迎えや助けは来ないのか」
「侵略率は100%です。攻略できないなんて、よっぽどのことがない限りありえませんから」
「それなら99%だろう」
「?」
「君はなんだ」
「あぁ、そうですね。…1%、優柔で居ついてしまった個体がここにいますね」
僕はいつの間にか、
彼の手を握っていた。
「あの時自分が行きたがったのは。
 この世界の民間信仰を学んでみたかっただけです」
「何か学べたか」
「はい」
夜美の頬は内側から赤く滲む。
その笑みは仮面ではなく、間違いなく僕自身へと傾けられていた。

「あっ!!!」

ふいに瞳孔を開く夜美。
繋いだ手を縦に揺らしながら、僕の背後を指差した。
「っ見てください十郎!!」
射的屋まで引っ張られる。
彼が鼻息を荒げていたのは、
屋台の真ん中に鎮座した炊飯器だった。
あんなもの欲しがっていただろうか。
そもそも機械音痴の君に扱えるかどうか。
夜美は僕の驚きをよそに、なお興奮していた。
「お願いします!」
親にせがまれた子供が炊飯器を狙う。
玉が箱に当たり、弾き返されるたび、夜美は身体を揺らした。
慌てずとも…。
「ああいう景品は大概取れない」
「やってみないとわかりません!」
的を得られなかった子供が投げやりに席を空ける。
夜美は代わりに銃を取り、机に肘付き狙いを定めた。
僕は店主に30円を支払う。
横では子供たちの虚しい空砲が響く。
出てきた親さえも諦めて立ち去っていく。
この体験を含めての、30円だ。
ただ夜美だけは夢見る目つきで炊飯器を狙う。
無茶だろう。
発射台の一番端から、中央の大当たりを落とそうというのは。
「下側を狙いたまえ」
「……」
「三発ある、押し出すようにして落とせば……」
やけに静かだと思った。
夜美は真面目に語る僕を見上げて、くすくすと笑っていた。
その片目を銃の上に乗せ、引き金を引く。
空砲とは思えぬ重たい音が箱を叩いた。

「言ったでしょう?」

箱はのけぞり、屋台の帳に持たれかかった。
落ちる予定などなかったと、面食らったのは炊飯器の方だった。
僕と店主は目を丸くし、子供たちから拍手を受ける夜美は照れ臭そうに笑っていた。


屋台を出ると、外はすっかり暗くなっていた。
夜美の手には100点と書かれたピースマーク。
箱をほんの少し切り取られた炊飯器は、また表舞台へと並ばされた。
「さすが家電は点数が高いですね!」
「本体は持ち帰らなくてよかったのか」
「自分が扱うと、また壊してしまいそうなので」
「そうだな」
「なぜほっとしてるんです?」
「君が炊いた釜飯に勝るものはない」

夕闇が深まり秋が近づく。
長い沿道は人が溢れ、夏を保とうと温度を上げる。
面をつけた子供たちが、それぞれの必殺技を唱えていた。
めくるめく地球人と、ピースマークを集める宇宙人。
僕は先より強く、夜美の手を握っていた。
「どこにも行きませんよ」
夜美は繰り返しそう言う。
「ここにいます」
「僕はまだ、君を信じられない」
こうして二人、連れ添って歩くのは久しぶりのことだった。
君が他者に認識されようとも、
こんな都合の良い幸せは僕の夢なのではないかと思ってしまうのだ。
「手を離せば、君は消えるような男だ」
言い訳を聞きたいわけではないのに。
返事を求めてその顔を見れば、夜美は変わらず笑んでいた。
「今の顔、もう一度見せてくれませんか?」
「?」
「すごく可愛らしかったので」
「冗談じゃない」
僕は足早になる。
つられた夜美はあっと足元を崩した。
前のめりに倒れそうになった彼を、僕は胸で受け止める。
…鼻緒が切れていた。
人波は立ち止まった僕たちを逸れ、川のように流れていく。
「あぁ、やってしまいました」
「古い下駄だった」
下駄を拾い上げ、代わりに彼に肩を貸す。

沿道を外れた木陰は薄暗く、
騒がしさをひそませていた。
木にもたれた彼の足元に跪き、下駄を確かめる。
下駄は若き父か叔父さんの物だ。
無事である片方の下駄も、よく見れば鼻緒を痛ませている。
「走ったせいですかね」
「飛んだりしたせいだろう」
手拭いを歯で裂き、捻って細い綱にする。
鼻緒の代わりとして通し、夜美の足に履かせた。
ぶかぶかと揺れる。
再度調節が必要だ。
「ありがとうございます」
「夜店で新しい下駄を買おう」
もう一度試そうと足首を取る。
すると煙の如くすり抜けた足が、僕の顎に触れた。
「!」
見上げるように促される。
いつからか、彼は優しく深い、笑みを浮かべていた。
「どうしたら信じてくれますか」
「……、」
つま先が喉仏を下り、襟元を広げて鎖骨に触れる。
「夢じゃないと、いつも伝えているのに?」
夜美の瞳の中には、眉を潜め、戸惑う子供のような僕がいた。
そのような僕を見て、彼は足を引き下げた。
彼の視線は沿道の明かりへと向けられる。
僕は壊れた下駄を置き捨て、彼の横顔に手を添わせた。
聞きたいことはたくさんある。
話したくなければ、話さなくていい。
だが……。

怖いんだ。
「不確かなまま君を愛することはできない」
祭りの熱に、僕の虚栄は溶かされた。
そしてそれは夜美も同じだった。
「この地球を二つに分けた時。……自分の存在も写してしまったようなのです」
「……、」
「自分たちは真一に助けられ、同じ道を辿り。
 …けれど一つ違ったのは、あなたの母となるはずの「彼女」は
 別の物を愛してしまったようなのです」
別の、物。
「誰に似たのだか、地球の青色を愛してしまったのです」
「……」
「そのせいであなたは生まれることなく、そのおかげで今この世界がある」
「……」
「彼女は本当に手がかかります。自分を起こす役割を忘れ、
 自身も「眠り」についてしまうだなんて…」
「……」
「ですから自分はあなたの夢などではなく……」
「僕の母と君は、どんな関係なんだ」
「?」
君が「彼女」と発し、見知った口調で話すたび、僕の心は黒ずんでいた。
「……君の伴侶か」
「えっ」
夜美は目を点にして笑いを吹き出した。
しかし笑い返さぬ僕を見るや口を閉じて残りを飲み込む。
「何がおかしい」
「すみません、そこを気にされると思わなくて」
「気にしないと思うか」
「嫉妬しているんですか?」
「……」
「どうか安心してください」
触れていた手に手を重ね、指を繋がれる。


「自分の番いは生涯ただ一人。十郎だけですよ」

空振に祭り場が揺れる。
皆の目が等しく空を向く。
夜美の頬の赤らみに、
僕は花火の打ち上がりを知った。

「行きましょうっ」

僕の手を取り、夜美は走り出した。
解けていたはずの鼻緒は黒い糸によって結ばれていた。
彼がとうに一人で歩けたことを、僕はまた見抜けていなかったのだ。
背後に花火の音を聞きながら、長い石段を駆け上がる。

そうして振り返った大空に、
光の点綴が広がっていた。

色とりどりの火花が咲いては散り行く。
天体を望むと等しく、
全ての区民はこの音と光を見ていることだろう。

「流星は、この百年間で数千個も落ちているそうです」
また、花火が上がる。
「自分が地球に来る以前から。「いろんな物」が飛来して。
 人間は「いろんな物」と、交わって来たんでしょうね」
「そうかもしれないな」
「そして必要な時にだけ、眠っていた防衛本能を呼び覚ますのかもしれません」
鷹に爪があり、蜂に毒があるように、
同じ地球の生命である僕たちにも戦う力が備わっているはずなのだ。
イカロスと呼ばれていたあのヒーローは、
地球を守るための免疫反応だったのかもしれない。
「宇宙人の自分には、やはり適さない星です」
「僕にとっては平和だ」
「本当にそう思っています?」
「?」
「なんでもありません」
ずいぶん含んだ言い方だな…。
「先日大雨が降ったらしいが、知っていたか?」
「あー聞きました。鞘師邸だけは1ミリも浸水しなくてよかったですね」
「動物の耳も生えたが。君の言う通りあれは本当に夢だったのだろうか」
「夢です。それにしてはお似合いでしたよ」
「……、」
そのままでいてくださいと、夜美は僕に寄り添った。

「あなたが死んだら、地球を滅ぼしますね」

また一つ、花火が上がる。
「それまでは。あなたの平和を守ってあげます」
「僕は死なない」


「次は青い花に生まれ変わろう。夜美の好きな色だ」

「見つけたら、摘んで君の髪に挿してくれ」

「枯れる頃にはまた、新しい花に生まれ変わろう」


君は僕の言葉を笑わなかった。
涙する君を見て、
笑っていたのは僕のほうだった。

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