子供の頃に過ごした夏は、もっと暑かったような気がする。
蒸し暑さに揺り起こされて、
危なかった、と扇風機を回すんだ。
このまま寝ていたらカラカラのミイラになっていたんじゃないかって。
それから窓を全開にして、籠もった熱気を外へ追い出す。
遠く風鈴の音が聞こえてきたら
僕の心はやっと涼しくなれたんだ。
夏の過ごし方は人それぞれ。
小さい明君の朝は、駄菓子屋で一番安いアイスを食べるんだって。
寝転がって、陰が伸びていくのを日がな一日眺めてるんだって。
それでも暑さでうだるようなら、海に飛び込む、らしい。
……海。
海かぁ。
そういえば。
「僕、行ったことないんだよね」
ご飯を食べる手を止めて、明君は瞳をキラキラ輝かせた。
部屋を震わす「海行くか!!!」の爆声。
どうやら海には暑さを除ける何かがあるらしい。
とにもかくにも、
そんな話の飛躍が今日のこれからに至る。
トツパースの雨
ふと目覚めると鼻先に明君の寝顔があった。
唇は波打って、楽しい夢か美味しい夢を見ている様子だ。
枕の代わりに大きな浮き輪。
寝巻きの代わりに涼しい柄シャツ。
ズボンの代わりに、海水パンツ……。
やめなよって言ったけど、
悪夢を見ないコツは眠る姿勢にあるのかもしれない。
僕たちは今日、海水浴へ行く約束だった。
だけどまだ日も遠い時分、
街灯の明かりが雨だれの影を部屋に落としている。
僕は寝返りを打ち窓を眺めた。
どうしてこんな時間に起きてしまったのかと思えば、
この雨音のせいみたいなんだ。
「……、」
「しょ〜ちゃーん…。 ど〜したの……」
「雨すごいよ」
「朝にゃ止むだろ〜……」
明君は目を瞑ったまま、楽しそうに夢の中へと帰っていった。
僕はまた磨りガラスの庭先に目を凝らして、
うーんと考えた。
だって雨だれ、というより滝。
雨音、というより弾雨。
……ちゃんと晴れてくれるかな。
暑さが和らぐのは嬉しいことだけど、
今の僕は明君と同じくらい海に行きたい気持ちなんだ。
「正ちゃん」
「?」
「……漏らした?」
「え?」
「なんか俺、濡れてる」
「だとしたら君じゃないかな」
呆然と起き上がった明君は
意外にしっかりした手つきで、二人の掛け布団をめくり上げた。
明君の下半身はびちょびちょだった。
「ぉおお!!!」
「えぇえ…!」
というか僕のおしりも。
背中も、枕も。
部屋全体が、
この大雨でし、浸水してる!
寝室を飛び出し僕はテレビに、明君は画材に飛びついた。
目につく物を両手に拾い大慌てで二階へ運ぶ。
その間にも雨はくるぶしから膝へ、
膝から腰へと水位を増していった。
腰と階段が抜けそうになる程駆け上がり、駆け下りる。
二階の部屋はどんどん狭まり、
心なしか傾いてさえ見れる。
だけどまだ、扇風機が残されている……。
すると階段の半ばで明君が立ち往生していた。
「あああ明君なな何それ!!」
「フスマ開けたらでけぇ狸の置物があった!」
「もっ、…え、なんで!? もっと大事な物運ぼうよ!」
「でもよ〜っ」
「早く上って! 階段狭くて降りられないよ!」
「これがまた重てぇんだぁ」
「……」
……扇風機。
脳裏に浮かぶ、買ったばかりの扇風機。
この狸すごく可愛い顔をしているけど、
夏の僕には扇風機が大切なんだ。
僕は狸の顔を掴み、みぞおちに膝を刺した。
衝撃は一瞬で狸全体に伝わって、信楽焼の破片として辺りに散らばる。
明君の両手は宙を掴んだまま固まっていた。
滑るように一階に向かう。
水位はますます増していた。
扇風機、い、印鑑、払込の証明書、冬服、
いっそこのタンスごと持ち上げよう。
「!」
一辺を明君が支えてくれた。
やっと目を覚ましてくれたみたいだ。
それからの水揚げ作業は早かった。
海水パンツで眠ることが正しい日があるなんて。
嵐とも違う、突然壊れた蛇口のような雨。
夜はそんな雨と僕らのどきどきを連れて、静かに遠ざかっていった。
「……」
「……」
「……」
「……おはよう、」
「お、おう…」
差し込んだ朝日は、
荒物に囲まれた僕たちを面白おかしく切り取った。
明君に従って、海水服まで着込んでしまった僕。
けれど雨は二階の底まで濡らすことなかった。
明君は明るい窓辺に近づいていく。
僕もタンスづたいに立ち上がり、窓の外を見渡した。
「こんなことって、あるかぁ…?」
一面の、田園風景。
それも家々を茂らせた、奇妙な田園風景だ。
雨は一夜にして町を浸水させたのだった。
空はまだ未練がましく、ぽつぽつと雨を降らせている。
ピークは過ぎたようだけど水に動きはなく、
しばらく引きそうにない。
「海に行くつもりが、海が来ちまったな」
「……、」
「どうすっかぁ」
落胆した左手で、明君は後ろ髪をかく。
彼は少しずつ冷静さを取り戻しているけど、
僕の心音は高鳴ったままだった。
「……」
頭にあったのは、父さんたちのことだ。
「雀荘の様子見てくる」
「!」
沈まないようにと浮き輪を被せられていた僕。
着のまま窓枠に足をかければ、
彼は僕の浮き輪を引っ張った。
「だ〜ストップストップ!!」
「行かなきゃ」
「落ち着けって!」
「でも父さんたちが…!」
「正ちゃん泳げねぇんだからさぁ!」
そう、かもしれないけど。
「浮き輪があるから」
「バタ足で行くつもりか…?」
「……、…どうしよう」
安否を聞きたい電話は水の底だ。
二階に運び上げたのは不用品ばかり、
我に返れば昨夜の雨の激しさを痛感する。
「俺が泳いで行くからよっ」
「っ危ないよ!」
「だから正ちゃんは待っててなって」
「正太郎ーー!」
モーター音が近づいてくる。
僕たちは顔を見合わせて、確かに名前を呼ばれたことを驚いた。
「父さん!!」
真白いボートが窓のそばへ横付ける。
父さんは滲む汗をそのままに、
僕をまっすぐ見つめた。
「正太郎っ、」
「!」
「……助けてくれ…!」
浮き輪を脱ぎ捨て、
僕はボートに飛び乗った。
……助けてって。
父さんのこんなに焦る声を聞いたのは、あの日以来のことだった。
大家さんも、サリーさんも、どうか無事でいて。
モーターボートは焦る気持ちを2つ乗せ、
不気味な湖面を切り進んでいった。
「あら! 正太郎さ〜ん!」
「ヤ〜ン!」
屋根の上の二人は僕に向かって手を振った。
幸い雀荘も二階の浸水は免れたよう。
もしものために父さんが二人を屋根へ登らせたんだろう。
二人の笑顔を見て、僕もやっと生きた心地がした。
父さんは雀荘の階段横にボートをつけると、
落ち着いた足取りで部屋へと戻っていく。
来てくれと目で言われ、後を追いかけた。
薄暗い部屋の奥、父さんの背中はゴソゴソと何か準備をしている。
……それにしても。
すっかり父さんの発明部屋になってしまった僕と明君の部屋。
差し入れる光で、様々な金属パーツが鈍く輝いていた。
「…よし」
「?」
「正太郎、これを見てくれ」
父さんの足元にはプロペラのついた機械があった。
それは腕ほどの太いチューブに繋がれて、
チューブの先は窓の外へと垂れている。
浸水して平たくなった空き地に、大きなビニールがぺたりと浮かんでいた。
「!」
…きっと脱出用のビニールボートだ!
「このボタンを押して欲しい」
「うん…!」
言われるがままに取り付けば、プロペラが回って空気を送り始めた。
部屋の中に竜巻が起こる。
激しいモーターの音がまるで雷のようにも聞こえる。
紙やネジやが宙を舞い、だけど手を離さないよう力を込める。
すると外のビニールはおっとりと、悠長に自立を始めた。
「すまない正太郎、またお前にしか動かせないよう設計してしまった」
「そ、そうなんだ!」
「完全に癖だ」
「でももう大丈夫だよ!」
「ありがとう」
「……これ、ってなに!?」
「ビニールフロートだ」
?
「これで避難所に行くんだね!」
「……」
「行くんだよね!?」
空気が詰まり。ビニールがはち切れそうになる、その瞬間。
大きな白鳥の首が立ち上がった。
「ありがとう」
「うん…! これっ、なに……!?」
「巨大浮き輪だ」
「避難所に行くんだよね…!?」
「送風機を止めてくれ」
あっと慌てて手をのける。
音はふわっと部屋に溶け、静寂に蝉の声が瞬いた。
「……」
「と、父さん……?」
終始、白鳥の成長を見つめるままだった。
すると。
「!」
西から東に、誰かが天井裏を駆け抜ける。
追いかけた目が眩んだのは、
ふわりと翻るスカートの白さのせいだ。
白鳥の広い背に飛び乗った大家さんは、
ほの赤らんだ笑顔で振り返った。
「すごいわぁ鉄郎さん!」
「…!?」
「サリーさんもどぉぞ!」
「ヤンヤ……」
「だいじょ〜ぶ! 私がいるわ!」
サリーさんは身を縮め、両足を揃えて屋根を蹴る。
そして大家さんの腕へと飛び込んだ。
白鳥は一瞬大きく傾くも、二人を優しく包み込む。
瑞々しい笑い声は穏やかに、水面を滑っていった。
僕は父さんの満足そうな横顔に愕然としていた。
町のスピーカーが作動する。
>>世田谷区民の皆様に、お知らせです<<
どこかで高く、ビーチボールが上がる。
>>局地的な大雨により、浸水被害が、報告されています<<
子供たちの笑い声が聞こえる。
>>周囲の状況を確認し、各自避難行動を……<<
「響子さん」
「はいっ」
「かき氷はいかがですか」
「いちご味がいいわぁ」
窓辺にかき氷機がある時点で、何かに気がつくべきだった。
「正太郎、お前は何味が……」
父さんが振り返る頃には、僕はモーターボートに乗っていた。
誰もサイレンを聞いていない。
蝉時雨とそう変わらない。
町は呑気に、のどかに、この浸水被害を楽しんでいるようだった。
家に帰ると明君がハラハラとした面持ちで待っていた。
窓から身を乗り出して、
まずは僕の無事を安堵する。
「大家さんたち大丈夫だったか!?」
「うん」
「なンか困ってんじゃねぇか!?」
「ううん」
「〜ンなわけあるかっ!」
やっぱり心配するのが普通だよね。普通はさ……。
あんな表情で「助けてくれ」なんて呼び出されたらさ。
「今から俺も行く!」
「みんなでかき氷食べてるよ」
「はぁ……?」
「安心して」
「……。ほんとに?」
「本当に」
「…うー」
「本当だよ」
「正ちゃんがそうだっつーなら、まぁ……。一安心だな!!!」
「うん」
「……」
「……」
ということは。
「俺たち海水浴行ける!?」
「うん海水浴行ける」
サングラスを装着し、片腕に浮き輪を抱える明君。
コンマ1秒で不謹慎を着飾ると、
窓からボートに飛び移った。
いつもと同じ、水しぶきみたいな笑顔で僕を見る。
サイレンは繰り返し流れている。
能天気なのは僕たちも同じだった。
僕はゆっくり、モーターボートを動かした。
それから祖師谷の駅に向かった僕らだけれど、
水浸しで電車が来られる様子はなかった。
だけどこの水もどこまでも続いてはいないはず。
「成城まで行けば水も引いてんだろ」
「うん」
そうしたら小田急線に乗って、湘南に行くんだ。
……それにしても。
心が落ち着いてくると、景色の色々に気が回る。
仙川が氾濫したのか魚が泳いでいる。
急に広がった世界にも戸惑わず、祖師谷の住民然としている。
なにより不思議なのは、空も水も、飴色をしていることだった。
「綺麗だね」
「しょんべん色だろ」
宝石のトパーズを溶かしたみたいだ。
水面に触れたら、指の先から白波が立つ。
僕は引き上げた人差し指を見つめ、それから少し舐めてみた。
「あ、甘い」
「オイオイオイばっちぃ〜!」
「やっぱり砂糖水だよ」
縁日で嗅ぐわたがしの匂いが、
町中に立ち込めているんだ。
みんなが楽しい気分でいられるのも、この匂いのせいかもしれない。
懐かしさがきっと童心を思い返させるんだ。
僕はまた空を見上げた。
「不思議だね」
「フシギだなぁ」
明君は腕を組み、わざとらしい声でそう言った。
「明君。僕思うんだけどさ……」
「正ちゃーん!」
爽やかな声が僕たちを引き止める。
木漏れ日落ちる並木の下に、優雅な手漕ぎボートが浮かんでいた。
立ち止まった僕たちのところへ、
小林君はゆったりと近づいて来る。
こげ茶の木製ボートはまるで馬の背のよう。
小林君の対面には正君がいた。
「おはよう小林君」
「やぁおはよう! 面白い景色になったなぁ」
成城は区画整理されていて、お金持ちの家が多い。
水に沈んだ風景はベネチアに見えなくもない。
「あの倒壊寸前オンボロ家は大丈夫かい?」
「オイ」
「大丈夫だったよ。一階は沈んじゃったけど」
「そうかい。困ったらうちを頼ってくれよ、一つ空き部屋があるからな」
「オイ!」
「ありがとう。それよりどこへ行くの?」
「ただの遊覧だよ! 正に言われるままさ」
「SRBの小林です!!! この雨についてどう思われますか!!!」
「!」
「積乱雲の発達と思い難いこの異常現象について
籠目さんの見解を「それじゃあ正ちゃんまた会おう! ッハハハ」
「ば、ばいばい」
「待ってください籠目さん! チンピラのお兄さーーん!!!」
「アッハハハ」
待ってと言われても、遠ざかっていくのは小林君たちのほうだ。
小林君の笑い声が並木の真ん中を抜けていく。
どうやら彼は、息子の不思議探索に駆り出されたようだった。
「…アイツ、俺をいねぇモンだと思ってやがるな」
一切見てなかったね。
「ホントうぜぇなぁ……」
「僕たちも行こっか」
「う〜……」
明君は小林君に向かって歯軋りしている。
またモーターボートを動かして、無理やり視界を千切った。
水位が下がっていくのを徐々に感じる。
けれど成城の駅も同じ浸水被害を受けていた。
次の駅にまた、ボートを進める。
そのうち景色もだんだん見慣れてくる。
気抜けて空を見上げたら、薄黄色い雲の切れ間から青空が覗いていた。
「……」
……異常現象。
正君の言った言葉を思い出す。
彼の言う通りこんな景色はおかしなことだ。
黄色い雨に、飴の匂い。それが予報もなく突然降ってくる、なんて。
大人の順応力ってすごいと思う。
あんなに「不思議なこと」を体験したのに
今は何事もなかったように暮らしている。
今日のことだって。きっと明後日には、来週には、
もう忘れてしまうんだろう。
「君も怪獣だと思う?」
正君が、暗にそうだと言っていたように。
明君は船首に座した置き物になったまま振り返らなかった。
「どうだかな」
「綿菓子みたいな怪獣がいたとしてさ。
空でバラバラになって、雨になった……なんて」
「正ちゃんそりゃあなかなか……」
「?」
「イヤ、売れねぇぜ」
「空想の話じゃないんだ」
「綿菓子工場が大爆発起こして。ついでに下水が氾濫したんだろ」
「……」
近くに綿菓子工場なんてないし、
下水は空から降らないんだけど。
うーん。
「そーゆーことにしといてやろうぜ」
そーゆー、こと?
「なんも考えなくても平和でいられるってことは。
そーゆーことにしてくれた奴がいるんだろうよ」
そーゆーことに、してくれた奴。
「それって誰?」
「そりゃわかんねぇよ」
「綿菓子怪獣を倒せる「人」なんているかな?」
「いやいや、綿菓子怪獣がいるの前提にしないでェ……」
「……いると思う」
「アイツんとこの息子が今、それを必ッ死に調べてくれてんだ」
さっきまで馬鹿にした目を向けていたのに…。
「……」
「ヒーロー元気で留守が良い、ってな」
よくわからないけど。
明君はたまに元ヒーローっぽいことを言う。
腕を組んだ大きな背中は、現役を引退した親方みたいだ。
……つまり「そーゆーこと」って言うのは、
僕たちの平和は「誰か」に守られてるってことだよね。
「あっさん」
「あっ…さん……?」
明君はあぐらごと回転させて、僕を振り返った。
「君が言ったんだよ、あだ名が欲しいって」
「あだ名ってもっとこう……! 要するにアッさんはなんか遠いぜ」
「あっちゃん」
「イイイ…!! 近けぇ!」
「正解があるの?」
「多面張だ」
多分麻雀用語なんだと思う。
「正ちゃんがつけてくれるなら、なんだって良いんだけどよ」
「あっ君」
「……」
「あっ君がいいな」
「……」
急に黙り込んで、項垂れる。
それから険しい顔で真横を見た。
目線の先にはラブホテルがあった。
「ロンしたんだ」
「よく、わかったな」
僕はボートの速度を早めた。
「海楽しみだね、明君」
「おぉ……」
浮き輪を枕にしたり水着で寝たりなんかしないけど、
君が泳ぎを教えてくれるっていうから、
指折り数えていたんだよ。
喜多見に着く頃にはボートを降りていた。
浅瀬はずっとずっと遠くまで続いている。
駅には電車が止まっていた。
僕たちは急いでホームへ走り、発車ベルとともに座席にへたりんだ。
「セーフ〜!」
「よかったっ」
「っア正ちゃん! サンダル片っぽ!」
「!」
右足が裸になっている。
水から階段に上がった時、確かつまずいて……。
きっとその時だ。
明君は真横に足を置くと、サンダルだけ残した。
「履いてな」
僕の足に余る、大きなサンダル。
左足にも同じのをくれる。
「汚れちゃうよ」
「いいのいいの。だってこれから海に行くんだぜ」
「相模大野で乗り換えあるよ」
「距離なんて関係ねぇの」
電車が加速して雨雲を抜ける。
暑い夏の午前11時だった。
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